パナマを越えて=本間剛夫=86

 農業担当官はブラジルに駐在したことがあり、私が戦後二度目の旅行の際、サンパウロで日本人移住者の候補地選定に動向した間柄だったことを知って親しみが湧いた。彼はボリビアの底地ジャングルに新設されたサンファン移住地の農業指導者として駐在しているのだといった。
 食卓を囲みながら、誰もがゲバラについて一言も触れないのが不思議だった。私がゲバラのボリビアでの活動を調べるために来たことを知らない筈はないのだが、と私は少なからず出鼻を挫かれた思いで誰にともなく口を開いた。
「ゲバラははたしてボリビアに入ってくるでしょうか……」
「さあ、それだがね。ゲバラがカストロと別れてキューバを出てから、どこへ行ったのか分らんのだね。入ってくるとすれば、この国の左翼団体も何かの動きがある筈だが、当局に質しても判然とせんのだな」
 大使がつづけた。
「フランス人のレジズ・ドブレという少壮の哲学者でラテン・アメリカの農民救済運動家として知られる男がいるが、その男がペルー、チリ、アルゼンチンと廻って何か企んでいるらしい。彼はいまパラグアイにいる。どうもそのドブレは次にボリビアに入るだろうと当局はみている。もし、そうならドブレはゲバラとどこかで連絡をとっているに違いないな」
 なるほど、ドブレの名を聞くのは初めてだった。この時、私は勿論、誰もがこの青年哲学者が一年後、事実上ゲバラを売り物にする男とは予想だにすることは出来なかった。
 私は「さすが、大使!」と感心した。
 ホテルに帰って私は考えた。いつまでも、このホテルにいても意味がない。ゲバラの侵入はまだ先のことだろう。しかも彼は直接この首都に入ることはあるまい。とすれば多くのアマゾンの源流を遡る経路を選ぶだろう。その源流は全く前人未踏の奥深いジャングルなのだ。
 エスタニスラウがいうように、ゲバラの同志に日本人がいるとすれば、日本人移住地のサンフアン地方を目標にするだろう。千人の日本人の中から百人の青年を味方にすることは困難ではない。
 ゲバラがボリビア侵入の経路にどこを選ぶだろうか、と私は東京にいるときから考えていた。ベネズエラからアマゾン上流に入るにはジャングルと二千メートルの断崖を降りなければならない。パラグアイからか。そこにも五千の日本人がいるが、そこからは幾つも大河がある。もちろん、ペルーからではない。あの六千メートルの厳寒のアンデスを越えるには半年以上の時を要する。やはり、アマゾンからだ。
 私はまず、日本人移住地のサンファンに行くことにした。それには空路でサンタクルースに降りる。その他には交通機関はない。サンタクルースはブラジルのサントスから延びる北西線(ノロエステ)の鉄路の終点で、この鉄道敷設の工事には英人経営の棉耕地での奴隷扱いにいたたまれず、ペルーから命がけでアンデスの峻険を越えて逃亡してきた沖縄県人が加わった歴史がある。
 サンファンはここから北西に道亡きジャングルを歩かなければならない。このジャングルに入った日本人たちの苦労は日本では到底想像の及ばない歴史がある。ゲバラがこの地方に侵入すると仮定すると、この地域の自然環境を知った上でのことだろうか。
 私はサンパウロで学生時代、一九三三(昭和八)ボリビアとの国境の町のクヤバまで旅したことはあるが、国境を越えてボリビアに入ったことはない。しかし、遥かパラナ大河の彼方に見渡せる原始林を眺めると、そのジャングルの深さが想像できた。アマゾン上流の光景と全く変わらないのだ。