パナマを越えて=本間剛夫=92

 そういってエスタニスラウは一枚のカードに二人の女性の名と住所を書いて私の手に握らせた。
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 私は日本を発つ前の十日間、南米における農民の革命運動とはいえない農民の暴動に関する資料を集めて読み漁った。農民といってもそれは白人系に限られたもので原住民はいつも運動の埒外にあった。白人国のチリを除いて総ての国に土地問題、これは広大な耕地に働くヨーロッパ系の農民たちによる暴動が殆ど十年ごとに起こっていた。
 このボリビアにしても、農場主の思想的後進性のために農場労働者を奴隷視し、農民の独立を拒否してきた。しかし何れの国の革命運動も政治的後進性の上に、それぞれの大耕地間の距離が交通機関の未開発のために連撃を阻まれて、いつの運動も局部的なものに終わってしまっていた。
 サンタクルースまでに通過したコチャバンバ渓谷の中心部の豊饒な農地を求める白系農民たちによる暴動もたびたび起きているが、成功したことはない。その裏には耕主と軍隊との腐敗した提携関係があるからで、悲しむべき現象なのだ。

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 翌朝、ホテルに頼んだ数日分の食糧をリュックに詰め、ジャングル用の支度で馬で出発しようとしたとき、好都合なことに若い農具の旅商がサンファンまで同行してくれることになった。心強いことだ。「流れが浅ければいいですが、雨が降ると山からの水が流れ込んで、流れが早くなるし深くなって、ちょっと苦労しますよ。でも今日は空一杯晴れ渡って雨の心配はなさそうですね」
 青年はサンファンとその南部の五つの村落の農民がお得意なのだという。とくにサンファンの日本人は農業組合をもっていて支払いがきれいだと説明した。
 ところどころに草ぶきのインジオの小屋があり、小屋の周囲を切り拓いた畑にじゃがいもと小さい青い実をつけたトマトが見えた。なるほど、じゃがいもとトマトはアンデス高地が原産地だったのだ。そんな同じような小屋がいくつもあった。「あのインジオたちは独立農なのですか。小作人なのですか」
 私は青年にきいた。
「まあ、独立農でしょうね。大体、地主は自分の土地の境界線も知りません。測量なんかしたことないし、大体、自分の土地の中に誰が、何人住んでいるかも知らないでしょう……。ただ、食べて生きている者から地代はとれませんでしょう」
 青年は苦笑した。
「さあ、急ぎましょうか」
 私たちははじめて歯に鞍をあてた。サンタクルースを発って三日が過ぎたとき、目の前に幅一キロほどの川が現れた。幸い馬が渡れるほどの細い板橋が架っていた。流れは泥水ではっきり分らないが深くはないようだ。乗ったままでは危ないので馬をおりた。それからも幅五、六百メートルほどの流れが四本もあったが、同じような板の橋だった。
 空はますます青く雲もなく雨の心配はない。
 サンファンまで、あと十二キロほどの集落サンカルロスで太陽は西のアンデスの山波の向こうに沈んで、辺りは夕闇に包まれはじめた。少し行くと道端に比較的大きいインジオの小屋が見えた。青年は旅の都度、ここを常宿にしているのだといって扉を叩くと、好人物と見える老爺が顔を見せて快く招き入れた。