護憲革命の思い出=サンパウロ 梅崎嘉明

 7月9日はブラジル護憲革命記念日である。その革命最中の(1932年)7月26日に私たち800余名の移民が、大阪商船ラプラタ丸でリオ港に到着した。
 リオは世界第3美港の一つとしてその頃から知られていて、移民たちはその都市に上陸して景観を満喫するつもりでいた。船から移住局へ上陸申請の無電を打ったが、先方からOKの返事が来ない。革命で何もかも麻痺しているらしい。
 一夜が明けて立ちこめていた濃霧が去ると、写真で知られているポン・デ・アスーカルの岩石がぬっと目の前に伸び上がっていて、船の近くには2~3の飛行艇が浮いており、しばらくするとその一機が水飛沫を散らして舞いたち、都市の上空を何十分も旋回している。その機が戻ると、また別の機が飛び立つ。革命軍の都市潜入を警戒しているらしいとのことだ。
 船からはその日一日中、上陸申請をくり返したがラチがあかず、夜になってサントスに向って南下した。
 幸いにサントス港では上陸を許された。平時はそこから列車でサンパウロ市の移民収容所に送られるのだが、収容所は革命軍の宿舎に利用されていた。出迎えに来られた秋穂梅吉氏は、
「まことに申しわけありませんが、今夜はこの町(サントス)で宿をとり、明日早く列車で奥地に出発していただきます」
と、一同に低頭されている。何しろ800名近い人数である。それぞれホテルや宿に割り当てられたが、どのホテルも寝台が足りず廊下にザコ寝といった有様だ。我々はどこまで落ちるのだろう、と移民たちは不満たらたらである。
 私は10歳の少年だったから、そうした大人たちの愚痴とはよそに、ホテルの窓から野外に目をやると、土嚢を積んだ塹壕が左右に伸びていて、何十名かの兵士が銃を構えて前方をにらんでいた。
 上官らしい男が何か叫び、兵士は一斉に土嚢を越えて前方へ走り去った。革命軍の集団訓練らしい。「勇ましいな」と私が感嘆していたら、髭面のホテルの主人から中に引っ張り込まれた。革命をすごく警戒しているらしい様子だった。
 この騒動は一緒に移住した800名の人々の体験でもある筈だが、そのことを書いた物はあまり見かけない。私は私の書く小説にこの革命を時々はさんでいるので、呼んで下さった方もいるかも知れないが…。

(注)戦争とか革命記念日は多く終了日をさしているが、この記念日は始まった日を記念しているらしい。何故なら私たちの入港した7月26日にはまだ争っていた。私は嘘を書いたのではない。このことを説明すると本文とは別なものになるので略する)