宿世(すくせ)の縁=松井太郎=(22)

 太一は五粁の山道を自転車でバスの始発所までゆき、M市まで出てもらった小切手を銀行に預けた。帰りにはちょっとした贅沢品などをもとめたい余裕が気持ちにういた。その頃から、太一は邦人のバザールにおいてある本棚をのぞいてみるようになった。住まいは草ぶき泥壁の小屋であったが、夕食にはあかるいアラジンの石油ランプの下、家族が食卓をはさんで笑い声がおきるようになった。味噌汁をすすりながら太一は、江戸末期のある歌人のよんだ、「楽しみは」という枕詞をおいてよんだ歌のなかに、ー貧しいながら一家そろって、炉をかこんで夕餉をとるのはたのしいーとの人間の真情にふれた歌を思い出した。太一が家をでる日、父からあびせられた罵言は忘れることはできない、自分はそれほどの背徳者かと、みずからを罰する心理になることもあった。ところが思いもしなかった好運にあって、家族の者が腹いっぱい食えるのをみて、不覚にも胸がつまって涙が椀のなかにおちた。
 言ってみれば太一は宝くじに当たったようなものであった。普通なら三年あるいは五年もかかる、資本の蓄積が一年でなったのである。R農場が売りにだしている三城を求めてルイザの借地をでたが、その年こそ松山の家の礎が決まったといってよい。
 千恵が太一と夫婦になったについては、千恵も世間しらずの例にもれず、中農の長男の嫁なら、家のなかの取りしきりや、育児などの穏やかな日常をのぞんだようであったが、思ってもみない前歴が夫にあったり、そのうえ親子に長年の不和があって、無一文で家を出ることになった。苦闘七年なんとかやっていけるめどがついたころ、太一は発病して廃人のようになった。
 義父の援助はうけたが、それにも限度があり、結局は千恵が無能な夫と子供四人をのせた屋台車をひく、使役牛の役をおわされる羽目になったのである。
 太一は好学なのに、娘、息子には高等教育はさせられなかった。それでも娘はせわする人があって、S種鶏場が裁縫塾にやる条件で女中を求めているのに、千恵は許したのであった。丈二は村の小学四年をおえ、ちかくの田舎町でそのうえの二年を卒業しただけでやめた。その頃、村でも裕福な家では子弟を上の学校にやる風があった。丈二の同級の友も中学、高校にすすむ者もあったが、彼は家の事情を知って、百姓をするつもりでいるようであった。
 義父は孫のどこに目をつけたのか、
「太一は良い息子をもった」
と千恵にもらしたというが、子供らしい身軽るさで、嫌がらずに家の仕事を手伝うのをさしたのだろうが、自分の婿への評価のはずれたのを、孫で埋めなおそうとしたようであった。丈二の性質の軽いのは、たぶん母規ゆずりだろうし、それでいて浮いたところのないのは太一の遺伝だろうか、商売気もあって一人前になれば、車を使って卸市場の売り場にゆきたいふうであった。
 借地は一年でやめて、自分の土地での営農になったので、一家の喜びはひときわであった。その頃より千恵は息子とともに努めれば、松山の家もまんざら見切ったものではないとの自信をいだくようになった。
 R村では地所が高みにあるものと、低地の者とは作物はちがっていた。前者ははじめから高みを望んでもとめていた。組合に加入していて、一千羽養鶏と果樹を植えていた。後者は川べりの低地のチシャ作りであった。低地の者は高地の者からはいくぶん見下げられていた。日銭がはいるだけに暮らしが派手で柄もわるかった。ある家では週末に仲間がよって賭博をやるという噂であった。