日本とチリ、海を通じる結びつき(2)=チリ・サンティアゴ在住 吉村維弘央(いくお)

 航海日数51日、航行距離5374海里を経て、4月15日、バルパライソに入港した。日本海軍練習船の初めての訪問でもあり、伊藤艦長は詳細な報告を海軍省に提出している。その、報告の中の一部を下記する。

【チリ国は南米大陸アンデス山麓の西にあり、国土は細長く北はカマロネス河を境としてペルーにつながり、東はアンデス山脈をはさみボリビア、アルゼンチン、パタゴニアに隣接し、西南は一面南太平洋を望む。1882年の同国総面積は207,350平方マイル(454,097平方キロメーター)、人口2,223,434人。
 全国を4地方17州に区部する。北部は土地は荒瘠(痩せ衰えている)だが、沢山の鉱物を産出する。第二地域はアマスカギニア河よりビオビオ河までの広く平坦な沃野で、バルパライソ、サンチャゴ等の7州がこの地域に属する。
 第三地域はドルトン河よりビオビオ河に到るところで、この国の最も地味の肥えた土地である。土着の未開人が占拠する所で、その数およそ34万人と言われる。政府は政府軍をもって少しずつ領域を広めている。第四地域はドルトン河以南で湖沼が多い。
 気候は緯度によって差があるが総じて温和で、サンチャゴ府並びにバルパライソ港の平均温度は夏季は79度(摂氏21度)、冬季は52度(摂氏11度)で、世界の中でも比べることの無い快い寒暖の平和な世界だ。南米のイタリーとも言われる。
 この地は地震が多く都市の壊滅と数多くの死者を繰り返し出している。人種は純粋なスペイン人、スペイン人と欧州人との混血、並びに土着人種との混血で、その4分の3はスペイン人の後裔であり、全国でスペイン語を使う。
 昔、スペイン人がチリに来てから土着民との間に混血が起こり、一種族が生れた。体格は欧米人に比べ若干身長も低く、体も小さい。水夫、兵士の大半は概ねこの混血種族出身が多く、勇猛果敢で身命も顧みず、最近のペルー国との戦いで連戦を飾ったのは、大いにこの人種の力に頼る。
 バルパライソは南米西海岸最大の港で、チリ国貿易の要の地である。人口10万人。土地の広さは3万里。東西に山を負い、西北は太平洋に面している。港は広く、水深もある。商船の出入りも多く貿易の盛んなウエリントン港もこのバルパライソ港には及ばない。
 港の周囲は切り立つ崖に囲まれ、崖の中腹に砲台を築いている。据え付けられている砲台は旧式の滑膅砲が多いが、最新なクルップ並びにアームストロングの巨砲も据えている場所もある。各砲台間に電話線を敷き、非常事態に備えている。
 土質は固く脆く、山上に草木が生えている(滑膅砲とは何なのか不明)。軍装備は国勢に比べかなり整っていると言えるが、大砲、小銃等全て他国に依存していて、国内には製造所の類は無い。サンチャゴの兵営内に小銃、刀剣等を破損修理する部局が一か所あるのみ。
 海軍の主要軍艦はブランコ、ワスカル、エンカラドの3隻で、その他は使用に耐えるものほぼ存在しないと見える。】

 この後、伊藤艦長を始めとする士官がチリ大統領に謁見した状況を述べた後、サンチャゴの陸軍兵営について、煉瓦造りの兵舎二棟があり、門の内側の横に兵庫を備え中に武器としてクルップ砲12門、ガットリング砲等35門、小銃2千丁余り、その他野砲60門余りに、加えて砲弾で打ち抜いた敵戦艦の鋼板等が並べられていた。
 説明によると、砲兵の演習はドイツ式を取り入れ精鋭の兵隊が数多いいとのこと。当時、ペルーに駐屯している兵隊は2万5千人余りで、兵営に待機している人数は僅かに250人という説明だった。
 以上のようなチリ訪問を含め、バルパライソ停泊日数33日を経過して、5月3日同港を後にペルー国カヤオ港に向かった。バルパライソより12日、1,350海里を航海して5月15日カヤオ港に到着。
 ペルー滞在の報告では、リマ市内の立派な建築物に大都市の体面を見ながらも、チリとの戦争で一敗地にまみれたた古戦場、塹壕等の荒れ果てた状況を目にして、昔日のリマを思い描き敗戦国の悲惨さを嘆いている。伊藤艦長を始めとする士官達の心に、一種の強い印象を与えたと見られた。