アンシェッタ島=日本移民の足跡を展示開始=戦後70周年でバナー寄贈=大半が冤罪の「島送り」顕彰

 戦後70周年を記念し、脱出不可能な監獄島といわれたアンシェッタ島刑務所に終戦直後に拘置された日本移民172人の名前とメッセージを刻んだ展示用バナーが8月23日午前、同島拘置者の最後の生き残り日高徳一さん(89、宮崎県)から寄贈された。手渡されたサンパウロ州立アンシェッタ島環境保護公園の管理責任者プリシラ・サヴィウロさんは、「島の歴史を残すことはとても大切なこと。早速展示します」と感激した様子だった。

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 終戦70周年の一週間後の日曜日午前、サンパウロ州北東部海岸ウバツーバ沖の同島へ到着した日高さんは、サヴィウラさんやモニトール(ガイド)ら7人に囲まれ、「あの部屋に自分は入っていた」などと、69年前の歴史をまるで昨日のことの様に生き生きと説明した。職員らはその様子を録画しながら2時間も熱心に聞き入った。
 その様子を見守りながらサヴィウラさんは「看守や刑吏官の存命者はいるが、拘置者の生き残りは彼一人。彼は私たちより島のことを知っていて驚いた。貴重な体験談が聞け、有意義な日になった」と喜んだ。
 この寄贈は、日高さんを主な語り部にこの島でロケをした映画『闇の一日』(12年)を撮った奥原マリオ純監督(40、三世)が自費で企画した。「刑務所跡の展示室には、日本移民172人が居たことが、まったく触れられていなかった。終戦70周年ということもあり、多くの無実の日本人がここに拘置されていた歴史を残したかった」と同監督は熱く語った。
 同刑務所は、サンパウロ市立劇場などの設計で有名な建築家ラモス・デ・アゼベード設計による歴史的建物で、1908年に建設された。勝ち負け抗争の勃発により、1946年6月頃から襲撃事件参加者約10人を含めて、共犯者と疑われていた臣道聯盟の幹部ら計172人が〃島送り〃にされ、御真影を踏まなかっただけの者まで送られた。
 同抗争関係者を丹念に取材して『百年の水流』を著した外山脩さんは、臣道聯盟はテロ事件とは直接的な関係はなかったから、襲撃事件参加者以外はみな、最終的に検察側が起訴できなかった─―と結論付けている。現在からすれば、日本人で島送りにされた者の殆どは冤罪だった。
 日高さんは「もう生き残りは私一人。今日は島に送られた皆に代わって感謝したい」とサヴィウラさんと固く握手を交わした。奥原さんも「その場で展示してもらえるとは思わなかった。勝ち負け抗争では両側が戦争の犠牲者。島の歴史から平和の大事さを学ぶことは重要」と喜んだ。

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 襲撃事件参加者の一人として各地の刑務所で計10年ほども服役した日高徳一さん。「DOPSで事情聴取中、ある移民は『お前たちはバカだ。地球の反対側にいて国家の名誉のためとか言ってこんな目に遭っても、日本から救いが来るのか?』と言われた。それに対し、『貴官のお言葉ですと、ブラジルでは自分の国を愛する事は法に触れるのですか?』と質問で返すと、刑事は顔を真っ赤にして『獄舎へ連れて行け』と命じたといいます」との逸話を語った。戦争中に連合国側についたヴァルガス独裁政権の反日的姿勢が強く残る終戦当時の雰囲気を伝える逸話だ。