原爆70年=州議会に「禎子の折鶴」=世界平和願い、兄が寄贈=「INORI」を熱唱

 サンパウロ州議会に「一羽の折鶴」が寄贈された。折ったのは「原爆の子の像」のモデルにもなった佐々木禎子。1943年に広島市に生まれ、2歳で被爆。その後発症した白血病と戦いながら回復を信じて千羽を超える鶴を折り、12歳でこの世を去った。1日夜、来伯した禎子さんの兄・雅弘さん、甥・祐滋さんほか関係者約30人が出席し、寄贈式が行われた。鶴は今後も常設展示される。

 佐々木禎子の逸話は7冊の本、映画1本、3つの楽曲にも表され、〃平和の象徴〃として広島平和公園の「原爆の子の像」のモデルになり、米国シアトルの平和公園に銅像も立てられている。
 NPO法人「SADAKOLEGACY」を設立して平和を訴える雅弘さんと祐滋さんが5年前、ニューヨークで開かれた国連会議で、ブラジル被爆者平和協会の森田隆会長と渡辺淳子さんと会ったことから話が進展した。
 雅弘さんは「多くの人に見てもらい、生きたいと願った心を感じてほしい。鶴は世界平和を願う大きな道具だ」と集った人々に向け語った。
 歌手活動をする祐滋さんは、禎子の写真の前で「INORI~祈り~」を力強く歌い上げた。「不安だった本当の気持ちを言えなかった12歳の禎子になったつもりで作曲した」と明かした。
 雅弘さんが鶴を手渡すと、同じく2歳で被爆した渡辺さんは目に涙を浮かべて受け取った。
 森田会長は「話を頂いた時、自分たちだけではどうすればいいかと迷っていたが、周りの皆さんの協力で皆に見てもらえるようになった。我々の活動にも一層の後押しになる」と雅弘さんらと固く握手をした。
 展示を後押ししたカルロス・ジャンナージサンパウロ州議は「鶴を見て平和について考えを深めてほしい」との心境を語った。
 また折鶴とともに同じく被爆者でサンパウロ市在住画家の伊藤薫氏の砂絵作品も常設展示される。長崎、広島、ブラジルの砂が使用され、大きく印された「PAZ(平和の意)」の文字と平和祈念像をモチーフにした絵が原爆の脅威を訴える。

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 折り鶴と共に展示されている原爆画に描かれた平和記念像は、肘から先が、敢えて絵からはみ出た形に描かれている。その真意を伊藤薫さんは「私の叔父がモデルになっているから」と静かに語った。「叔父の遺体は瓦礫の下から腕だけ見つかった。無念だっただろう叔父の人生を称えるために描いた」。その記念像の隣には二本の腕が十字になって描かれる。絵の意味を知ると「平和」の文字が一層強く心に残った。
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 佐々木禎子は2歳のとき、爆心地から1・7キロの広島市内で被爆した。その時は不調を訴えることなく成長したが、小学6年生の11月から首の周りにシコリができはじめ、1955年2月に白血病だと判明した。同8月にお見舞いとして折り鶴が送られた。それから「千羽折れば元気になる」と信じて折り続けたが、願いむなしく10月に死亡した。最後はお茶漬けを二口食べて、「あ―おいしかった」と言い残して亡くなったという。10年後に突然現れる原爆症の恐ろしさを伝える物語として広く知られている。