終戦70年記念=『南米の戦野に孤立して』=表現の自由と戦中のトラウマ=第17回=対伯批判できない邦字紙

3回もヴァルガスから国外追放令を出された三浦鑿日伯新聞社主

3回もヴァルガスから国外追放令を出された三浦鑿日伯新聞社主

 戦争中の経験は移民史上に残されず、心の奥底にうずき続けた。
 サ紙創立に関わり、文協事務局長、県連会長も務め、コロニアの裏面をよく知っていた藤井卓治は「日本語新聞最大の欠陥は、ブラジルの政治批判が許されないことにある。三浦日伯は日本の出先官憲批判で、時報と対立となりブラジル政治批判のワナにひっかけられて2度も国外追放の憂き目をみた」(県連『笠戸丸から60年』69年、51頁)と書いた。
 「三浦日伯」とは、戦前に3回もヴァルガス大統領から国外追放令を出された日伯新聞社主の三浦鑿のことで、〃筆禍事件〃と呼ばれる。
 戦前の三浦鑿の国外追放はもちろん、ヴァルガス新国家体制による外国語メディアへの規制強化と強制廃刊の苦い経験は忘れられるものではなかった。戦後も軍事政権によって外国語ラジオ放送禁止になった。ブラジル政府批判が御法度であったことはコロニアのメディア界全体に暗い影を落としている。
 パ紙編集長や『70年史』編纂委員長を務めた斉藤広志も1968年時点で、「この国の政局や政策を論じることは、いちめんデリケートな問題があるから、邦字紙の立場は『傍観者』という域から脱することはむずかしい。筆禍事件の前例もあることである」(ラジオ・サントアマーロ年報『放送』31頁)と邦字紙の態度を説明した。
 また戦前のコロニア新聞人、輪湖俊午郎は「何を書かざるべきか」を常々語っていた。多くの文章を書いてきた輪湖だが、戦争中自らが1年間収監されていた体験はほぼ書いていない。「書かざるべきこと」と判断していた可能性が高い。サ紙の内山勝男元編集長も戦中に収監されていたと『戦野』に出ているが、本人は書いていない。「書くべきでない」と当時の言論人が共通して思っていた何かが「戦争体験」にあった。
 神田大民ニッケイ新聞デスク(元日伯毎日新聞編集長)は戦後60~70年代の編集部内の空気を、こう表現した。
 「戦後の邦字新聞にとって、非難する対象はブラジル政府ではなかった。(中略)遠慮というよりは自制に近い。たとえば、軍政のころ、反政府運動者側に立った記事などは、書かなかったということである。当国政府を批判しないという気持の深層には、やはり過去国の権力の執行を受けているということがある。それはいかんともし難いという意識である。日本移民史上、何度か表に出た移民(有色人種移民とも括られていたが)導入制限の動き、戦時枢軸国側に立ったことによる日本語使用禁止、新聞発行禁止、資産凍結などである。日本人移民にとってはすべて苦汁であった。資産凍結解除運動もそうだが、ロビー活動のような運動を通じて、当国政府に解除を求めた歴史もある。(中略)例えば外圧が加わったりすれば、そんなものはひっくり返る、新聞の発行停止などは待ったなしでくる、と日系社会の有識の人たち、新聞社の先輩たちは肌で知っていたように思う」(神田大民、私の「邦字新聞の45年」、本紙08年7月5日付け)。
 通常〃表現の自由〃と言った場合は内容の問題だが、日系社会においては「日本語」という言語自体が問題にされ、内容はさらにデリケートだった。(つづく、深沢正雪記者)