明治3年=バイーアで切腹した日本人=海軍のエリート候補生=薩摩武士の前田十郎左衛門=後輩に山本権兵衛、東郷平八郎

腹を十字、ノドまで自刃

 ブラジルに最初に足を踏み入れた日本人は、1803年にサンタカタリーナ島にロシア軍艦で着いた若宮丸の漂流民4人であったが、彼らは通過しただけだった。最初にブラジルの地に「骨を埋めた」日本人は、1870(明治3)年にバイア湾で見事な割腹自殺を遂げた薩摩武士の前田十郎左衛門であった。日本に軍艦すらない時代に、なぜ日本人がサルバドールまで来ていたかと言えば、兵部省派遣でイギリス海軍に留学していたからだ。バイア湾に停泊中の英国軍艦内で、短刀で腹を十字に割いた上、自らノドまで切って果てた。日伯外交120周年を機に、あまり日の当たることなかった「ブラジルに骨を埋めた最初の日本人」の存在を振り返ってみたい。(敬称略)

 薩摩藩出身の前田十郎左衛門は、徳島藩の伊月一郎(後に江戸と改名、海軍大佐で死亡)と共に1869(明治2)年11月に海軍操練所に「貢進生」として入所した。
 この操練所は1869年9月に東京・築地の元芸州屋敷内に開設され、翌1870年に「海軍兵学寮」と改称した。さらに同76年に再改称されて「海軍兵学校」となった。同88年(明治21年)に広島県の江田島市に移転し、太平洋戦争終戦まで存続した大日本帝国海軍の士官養成を目的とした教育機関、いわゆる「江田島」として有名になった。
 二人は兵学寮生徒として「初の英国実習の留学生」に選ばれ、兵部省の派遣で英国海軍兵学校に3年間学ぶことになった。
 前田と伊月は日本にいた英国遊撃艦隊に搭乗して、太平洋を横断してバンクーバーを経て南下した。日本人の乗組員はこの二人だけだった。

教会を中心としたサルバドールの古い街並み(Foto: Adenilson Nunes/GEBA)

教会を中心としたサルバドールの古い街並み(Foto: Adenilson Nunes/GEBA)

 フラガタ型のリバプールを旗艦とする4艦、コルベット型の2艦からなる艦隊で、チリのヴァルパライゾ港に寄ってから最南端のホーン岬を通って大西洋側に抜け、英国に帰還する途中で、ブラジルのバイア湾に1870年10月6日に錨泊した。
 前田と伊月の次、日本海軍練習生の第2期生には山本権兵衛もいた。後に海軍大臣(3期)、内閣総理大臣(2期)、外務大臣などを務めた要人だ。山本は薩摩国鹿児島城下の出身であり、「陸の長州、海の薩摩」と言われる流れのなかにある。
 第2期生には日高壮之丞(後の海軍大将)、1871(明治4)年には東郷平八郎(後の日露戦争時の連合艦隊提督)、伊地知弘一(後の兵学校次長)ら16人が英米に留学した。これが、日本海軍の士官候補生の本流だった。
 薩摩閥である西郷従道(西郷隆盛の弟)が海軍大臣となって軍政を握り、山本が日露戦争を戦うに足る連合艦隊を作り上げ、その司令長官が東郷平八郎という薩摩武士の流れの発端にいたのが、前田だった。
 西郷従道が欧州視察から返ってきたのが1870年の夏。明治初期の自国艦隊をいまだ持たない日本にとって、このような留学はまさに国の将来を支えるエリート人材育成のための投資であった。

憤死説とうつ病説の二説

 ネット検索をするうちに専門誌『英学史研究』(34号、47―52頁、2001年)に掲載された留学生前田十郎左衛門の死」(佐光昭二)という論文を見つけた。
 それによれば、前田は1849年に鹿児島藩士の前田新之助(名は清政)の子として鹿児島城下に生まれ、名を「精兼」という。つまり、割腹自殺した時はまだ21歳の若さだった。1869年6月8日に慶應義塾に入社し、ついで開成所に学び、続いて海軍操練所に進んだ。並み居る薩摩閥の中でもエリート中のエリートといえそうな経歴だ。
 前田の自殺理由に関しては二説あり、通説では「艦内においてイギリス士官としばしば口論になり、侮辱されたのを憤慨して切腹した」との憤死説。もう一つが「高度のノイローゼが昂じて切腹自決した」といううつ病説だ。
 鈴木南樹は『埋もれ行く拓人の足跡』の中で詳しく前田の事件を描いている。彼は《いやしくも薩摩武士とあろうものが》と考え、《習慣風俗を異にする英国艦内の生活において、言語の不通から何でもない笑事などを侮辱されたと誤解し、それが度重なって割腹したものという解釈が真相ではなかろうか》との自説を展開している。
 一方、佐光は『英学史研究』34号でうつ病説を支持している。楽天家であった伊月に対し、前田は《ずば抜けた秀才で、おそらく極めて生真面目な、完璧主義者であったろう》と推測し、乗艦後に語学力の圧倒的な不足を感じ、将来の留学生活に大きな障害が生じるに違いないと《自信を喪失、次第に厭世的気分に傾いていったのではないか。そんな性格がゆえに、日本の将来を背負った重大な国家的使命感が、これまた格段のストレスとなって彼を徹底的に追い詰めたものと思われる》と見ている。日本海軍の未来を背負った「初の留学生」ゆえの重圧であろう。

このバイア湾に錨泊中の軍艦で割腹自殺した(Foto: Mateus Pereira/GOVBA, 30/01/2014)

このバイア湾に錨泊中の軍艦で割腹自殺した(Foto: Mateus Pereira/GOVBA, 30/01/2014)

 最初、二人は同じフィービー号に乗艦していたが、途中から前田だけが旗艦リバプール号に転乗を命じられ、そこから語学上の不足感が強まり、うつ病を悪化させたと佐光は見ている。
 同艦隊のホーンビ提督の《前田氏は横浜からバンクーバーまでは勉強をしていたが、なぜか南米チリのヴァルパライゾからバイア湾までは勉強をせず、こもりがちになり、周りと対話をしなくなっていた》(現代語訳、50頁)という証言も載せている。
 さらに伊月一郎が12月3日付でロンドンから兵部省宛に送った報告書にあった「一々取調候節にも一の遺書等無之事」との言葉を紹介し、《切腹はそのうつ状が昂じての突発的な決行であったことを示唆している》(52頁)としている。

英国墓地ユダヤ人区画に埋葬

 錨泊した翌日10月7日朝4時頃、その割腹事件は起きた。当時のジアリオ・デ・バイア紙は次のように伝えた。
 《年齢二十三歳の前田は暁の三時から四時までの間に戦慄すべき方法で旗艦リバプールにおいて自殺を遂げた。すなわち短刀をもって腹部を十字に切りたるのち、喉を数回刺した。この事実は同艦隊の将校および乗組員一同をはじめ、バイア人を深く感動せしめたが、その唯一の原因とも認むるべきは、同士官が永くその故国および家人と離れて望郷の念に堪へざりし為なるべく、すでに以前より憂鬱症に罹り居たる結果であらう》(『ブラジル人国記』野田良治、博文館、1926年より転載)
 同7日午後4時に、サルバドール市の教会で軍艦士官礼をもって葬儀が行われた。前田が仏教徒であるため、パルラ坂にある英国墓地で異教徒を埋めるユダヤ人区画に埋葬されたという。
 1910(明治43)年に帝国巡洋艦『生駒』がアルゼンチン独立百周年祭式典に参加した帰路、日本軍艦として初めてリオに寄港した。その際、サルバドールにも寄って前田の遺骨を掘り起し、日本に持ち帰るはずだったが、《その墓は若干年前に引払いとなり、今はその痕跡を留めざるため、同艦がその使命を果たすことの出来ざりしは遺憾であった》とある。
 当地では家族のいない「無縁仏」は数年で掘り起こされて共同埋葬されることが多く、前田もそうなった可能性が高い。今から特定するのは難しいが、今もその墓地のどこかに眠っている可能性は高い。なお移民作家の醍醐麻沙夫さんは、この前田自殺を題材にした小説「聖人たちの湾」を書いている。