終戦70年記念=『南米の戦野に孤立して』=表現の自由と戦中のトラウマ=第21回=ブラジルを裏切ったユダ

 《キシモトはユダの微笑を顔に浮かべながら、手にはブルータスの短刀を隠し、彼の息子たちを温かく迎えて彼自身も帰化した祖国(編註=ブラジル)を裏切った》。ミランダ報告書を受けて、DOPSのロッシャ警部補は48年4月29日付の報告書で、そう憎しみを込めた書き方をした。
 ユダはキリストを裏切ったとされる弟子、ブルータスはローマ末期の独裁官ユリウス・カエサルが議場で刺殺された時、腹心だったのに裏切った元老院議員に向かって叫んだ言葉だ。
 戦争直前の排日機運が高まる中で、親日的な印象が強かった分、ミランダは周りのブラジル人、中でもDOPSから「敵に味方している裏切り者」のように言われ、扱われるというトラウマを抱いたのではないか。
 ロッシャ警部補は岸本を「ユダ」や「ブルータス」に譬えている雰囲気そのままに、ミランダや山城を責め、ブラジル人としてトラウマを負わせたのかもしれない。
 それに対し、山城やミランダは「親日だった過去」を過剰に否定してみせることで、周りに対してバランスを保とうとした。DOPSに協力して過剰な日本人蔑視、敵視をしてみせることで、ブラジル人としての自分のアイデンティティを保とうとしたのではないか。
 翁長らエリート二世も過剰なほど「ブラジル人性」を主張したが、生粋のブラジル人であるミランダにとっても、そうせざるを得ない社会的な環境があったに違いない。
 一世が抱く日本向きナショナリズムがブラジル向きのそれとぶつかった最前線は、同化思想を持つ一世というより、現地生まれの二世エリートや親日ブラジル人だったのかもしれない。
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 戦争中、DOPSは枢軸国移民を弾圧したが、ヴァルガス大統領は1945年10月に自らの閣僚だったドゥトラ元陸軍大臣に政権の座を追われ、独裁政権は終わった。同年12月の選挙で民主的にドゥトラが大統領に選ばれ、体制が一新したかに見えた。しかし、なぜ翌年46年に勃発した勝ち負け抗争時まで、日本移民迫害の気運が続いたのか。
 調べてみると、ドゥトラが民主的に選挙で就任したといっても、まだ完全な民主主義になった訳ではなかった。彼は基本的にヴァルガス派であり、基本的に政権はそのまま温存された。事実上〃続き〃の部分が大きく、その中で勝ち負け抗争が起きていた。
 つまり、24時間以内のサントス強制立ち退き令を出し、コンデ街の強制立ち退き令を出したDOPSのメンバーがそのまま残ったなかで、自分たちの戦中の行為を真正面から告発する本を刊行した岸本を、そのままにしておけるはずはなかった。(つづく、深沢正雪記者)