終戦70年記念=『南米の戦野に孤立して』=表現の自由と戦中のトラウマ=第26回=社会不適応という圧力鍋

 戦後移住開始は1953年。日本から渡伯する分には渡航費補助が支給されて5万人がブラジルに送り込まれたが、戦前からの環境不適応者数百人を「邦人保護」の観点から送り返す発想はなかった。戦後移住開始直後に「邦人擁護」目的で不適応者を祖国に帰してやれば、桜組挺身隊事件も起きなかっただろう。
 総領事館に要求を拒否され、誰にも頼る事ができない彼らは、時間をかけて自問しながら自分で治す以外になかった。
 まさにその時期の『曠野の星』55年6月号の巻頭言で岸本は、桜組挺身隊には一言も触れずに「ブラジルを愛せ」と説いた。《我らは世界の何処に行っても、自分の立つ世界を愛さなくてはいけない。荒れ果てた土地にバラの花を咲かせ、砂漠に清水を湧かせるには、愛郷の精神から出発するものであるのだ。この愛郷精神は、その国土の民と新しき歴史をつくってゆく心、根強い建国精神から出発しなくてはならない》と書いている。
 さらに巻頭特集として新任した磯野勇三サンパウロ総領事との対談を掲載。桜組には触れずに、現在の国際情勢や日本の状況などを語らせ、結果的に日本が〃戦後復興の真っ最中〃にあることを分からせる手法だ。
 そんな時、認識派邦字紙は「桜組示威=気負い立つ右翼の実態=幟手にサンパウロ市の中心でまた狂態!=神も戸惑い給う」(日毎55年2月5日付)とし、「勝ち組=右翼」「頭がおかしい奴ら」と闇雲に批判するだけだった。
 『曠野の星』には勝ち組の気持ちを察し、彼らを仲間として受け入れ、相手が聞く耳を持つような表現で記事を書く方針が徹底されていた。
 どうして日本人はこのような不適応がおきやすいのか――。社会人類学者の中根千枝は『適応の条件』(講談社現代新書、72年、以下『適応』)の中で、日本文化は島国という環境に強く制約を受けて誕生した経緯から《ひどく国際性がない》と考察している。
 日本文化は《外に出るとどうしてもひよわなのである。そのため、いっそう内向的となり、日本文化の断片にしがみつこうとすることになる。自分たちのためにも日本のやり方に自信を持つ以外になくなるので、それは何より良い方法だということになり(中略)現地社会から浮き上がった島のような日本人コミュニティが形成される。そこでは現地の人々の悪口を言い合って気晴らしをするとか、日本人だけに通用する情報が交換される》(『適応』18頁)。コロニアの形成過程にはこのような部分もあったに違いない。
 帰るはずだったのに帰れなくなった十数万人の「不同化分子」は、《日本文化の断片にしがみつく》以外に自分を支える術がなかった。戦前から「アジアへ帰ろう」と新聞の社説で論じられる雰囲気の中で、辛い戦中を送らざるをえず、その不適応な精神状態が、日本的なやり方を頑なに守り通す「勝ち組」的なあり方に結晶した。(つづく、深沢正雪記者)