移民のふるさと巡り『メキシコ』(1)=ジアデマ 松村滋樹

 9月に米ドルが急騰し、分割払いの旅費の支払いに窮した。諦めかけた時、長男が助けてくれた。家内や娘達からも餞別を貰った。大金を使っての旅行に気も引けたが、アエロメヒコの機上の人となると胸がワクワク。早速、座席のモニターで航空機の運行情報を見る。地図上で飛行機が刻々とメキシコに近づいてゆく。夜食後、機内の灯が消え浅い眠りについた。時々、目が覚める。
 未だ薄暗い朝6時、メキシコシティ空港に到着。時差は2時間。大型バスに乗って、まず向かったのが日本メキシコ学院。ハシラサボテンを模った校章が目立つ、赤レンガの博物館の様な建物が三棟、屋上にプールがある体育館、講堂、文化センター、陸上競技場、サッカー場、テニスコート、芝生に囲まれた幼稚園、里山などがある。学院の経営方針の第一番目に、『学ぶ楽しさを味わえる学校 きらきら輝く子どもの笑顔』とある。月謝は7万円相当とか。私の孫達にも通わせたい学校だ。

メキシコ学院前にて

メキシコ学院前にて

 日本コースは日本の小・中学校の授業と同じで、日本に帰っても日本の学校で安心して勉強を続けられる安心感がある。又、メキシココースは『両国の相互理解、教育文化の交流、両国民にとって有為な人材の育成』を建学の精神に掲げている。メキシコ国内でもレベルの高い学校で、大学進学者も多いと学院長が自慢していた。
 両コース合同で行われる『大運動会』は、校内最大の行事だという。野外授業の児童達が昆虫の観察が出来る様に、あちこちに植え込みがある。付属の幼稚園では芝生や砂場で園児達が無邪気に遊んでいて、ご婦人方が「可愛い~」と叫ぶ。園児が私の手を引っ張り遊ぼうと誘う。
 ブラジル日本人移民100周年の2008年、私達は日伯大学創立運動を起こしたが、未だ道半ばだ。日本メキシコ学院は昭和49年、メキシコを訪問した田中角栄首相の「よっしゃ」で、一気に建設されたらしい。ペルーのリマ市にもラ・ウニオン校というスペイン語、英語、日本語で授業する日秘合同の優秀な学校があり、うらやましい限り。
 お昼のレストランがあるソカロ広場にバスが向かっていると、途中バスが徐行を始めた。なかなか前に進まない。なんやら叫び声がリズムとなって響いて来る。ガイドによると政治家のデモだという。バスが左折する大通りに大勢の裸の男女がこぶしを上げて踊っていた。私達はバスの中で総立ちし、写真を撮った。「きれいなお乳しているね」と、あるご婦人の溜息。眠気もすっかり覚めてしまった。
 良く区画整備されたメキシコシティ市街は南北や東西に幹線道路が作られ、道に迷う事はない。総延長226キロ、195駅、12路線あるメトロ。車輪は鉄でなく、窒素ガスを封じたゴムタイヤという。又、大通りに沿って、サンパウロでもお馴染みの二車体連接バスが専用道路を走り、クリチバ市同様のガラス張りの駅があって、メトロバスと呼ばれる。
 シクロビアを走る自転車が多く、オートバイは少ない。メキシコ市に900万人、都市圏に2千万人住んでいるが、交通手段はサンパウロより整っている。それでも、朝夕のラッシュアワー時には車の渋滞が起こる。メトロやバスも超満員らしい。
 周りを4千米級の山に囲まれた盆地のメキシコ市は昔、テスココ湖の島に築かれたアステカ王国であった。スペイン人が征服後、街を壊し、湖を干拓、広大な都市に変えた。車の排気ガスや火力発電の煙で盆地の街は公害がひどいらしい。週末には近辺の山々の別荘に出掛ける市民が多いそうだ。
 市内観光バスの行く先々に広場あり、公園あり、森ありで多くの市民の憩いの場となっている。公害に悩まされている様には見えない。ジャカランダの並木道があちこちにある。ほとんどが大木で、2月には街が紫に彩るという。
 ブラジルの日系人170万人に比べ、メキシコには1万7千人と日系人が少ないが、なんと、市の一等地にある1万3千米の広大な敷地に木造2階建延1500米、入母屋式の日本風建築の日墨協会が建てられている。
 戦後、メキシコ政府からメキシコ公使館の資産が凍結解除され、この好意を両国の親善と文化交流に役立てようと建てられたもの。日本庭園が美しく、泉石の脇に榎本殖民時代からの物故者の慰霊碑が建っている。雨の合間に私達はメキシコ移民先亡者に献花した。その後、大サロンで交流懇親会が行われた。
 私達ブラジルから90名が参加、人数は少ないがメキシコの日系人はとても賑やかだ。私はテキーラを頼み、運ばれて来るカバジートを次々と飲み干した。メキシコ市は空気の薄い高地なので、悪酔いすると驚かされていたが気持良く酔った。メキシコ日系人の心温まる歓迎のせいだろうか。 (つづく)