終戦70年記念=『南米の戦野に孤立して』=表現の自由と戦中のトラウマ=第28回=歴史がムリなら小説に投影

1969年10月18日、金婚式のお祝いで撮った家族写真。(前列左から)岸本、萩乃、(後列同)次女ルッチ、三男ヨツギ、三女耐子、長男ルイス、長女クララ、次男イザク

1969年10月18日、金婚式のお祝いで撮った家族写真。(前列左から)岸本、萩乃、(後列同)次女ルッチ、三男ヨツギ、三女耐子、長男ルイス、長女クララ、次男イザク

 病気を治すには「自分が病気であることを認識する」のが第一歩だ。つまり、ストレスの原因がブラジル社会との関係にあったと日系社会が自己認識するには、移民史の中に記す必要があった。
 ところが、戦中の迫害をまっさきに書いた岸本は国籍剥奪裁判という事態となり、「表現の自由」は奪われたまま。ヴァルガス独裁政権の続きの50年代はもちろん、64年からの軍政中に編纂された70年史も迫害を扱うことは難しかった。
 そこで日本移民は「ノンフィクション」でなく、「小説」(フィクション)としてなら書けるのではと考え、文芸に癒しを求めたようだ。小説という「架空の物語」の中に現実を強く投影させた。戦争の後に名作文学が生まれる―とはよく言われることだが、「表現の自由」が奪われたままの〃コロニアの戦後〃もまさにそうだった。
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 前山隆は『異文化接触とアイデンティティ』(2001年、御茶の水書房、以下『異文化』)の中で、その傾向を「加害者不明の被害者」という絶妙な表現で表している。
 《移民たちは、だれの想像も及ばないほど数多くの小説を書いてきている。このちっぽけな、南米の一隅に出現した日本語共同体のなかで、過去数十年の間に二〇種類以上の文学賞や懸賞小説募集が設定され、作品を発表し、消え去っていった。これらへの応募者数から推断するに、すくなくとも数百人の作者によって、数千の小説がブラジルの地で日本語で書かれてきている。このなかには、職業的な作家となったものはひとりもいない。いったい何がかれらにこうも多くの作品をかかせるのであろうか》(『異文化』204頁)
 その中心になった「コロニア文学会」は、1965年に26人の小さな同人会として発足し、翌66年から機関誌『コロニア文学』を刊行し始め、75年までに会員が700人に急増する勢いがあった。その75年には初めての日本移民小説選集である『コロニア小説選集』(全3巻)の第1巻が上梓された。
 そこには、戦前から戦中までの怨嗟の声が溢れている。竹井博(本名・桜田博)の「老移民」は終戦直後の勝ち負け抗争のデマニュースに翻弄されていがみ合う植民地の様子を主題にしながら、過去を振り返る場面で1924年のイジドロ革命が描かれる。革命軍の敗残兵が植民地に出没して金品強奪を始めたのに対し、植民者が一致協力して銃撃戦を繰り広げて自衛するも、無残に撃ち殺される仲間の姿が描かれている。
 それについて前山は《言葉も解さず、社会機構のメカニズムもよく理解せず、政治力をもたずに農村に点在していた日本人たちは、暴徒の餌食であったわけである》(『異文化』239頁)と解説する。(つづく、深沢正雪記者)