終戦70年記念=『南米の戦野に孤立して』=表現の自由と戦中のトラウマ=第31回=全盛の105号で突然の休刊

 最終巻の「休刊の辞」に岸本本人が書いた《終戦直後、コロニアは祖国の敗戦によって、思想的混乱に陥り「強硬」「敗戦」の二派に分かれて拳銃やドスを懐にして血眼になって抗争している最悪の時にこそ、民族の道しるべとなる高らかな言論の必要を感じ本誌は生まれた。「国は敗れても、精神を失うな!」と呼号して両派の間を駆け回った》との言葉に編集姿勢が集約される。
 武本由夫編集長も同号で〈現在のコロニアは『曠野の星』発足当時のコロニアではない。その経済的発展は瞠目に値するものであり、精神的な背骨も、稜々たる趣きを見せている。言うなれば、本誌の使命とするところは、大体に於いて果たし終えたと見られるのである〉と書く。
 つまり、文芸関係が大きく盛り上がるのを横目に、自分は役割を終えたと満足しながら舞台から去ろうとしていた。
 最終巻の後、岸本は一年間訪日した。ようやく自分の中の〃郷愁〃という気持ちを解禁にしたのではないか。それをコントロールできる禁欲的な人物だった。
 その後、69年2月から71年1月まで県人会会長を務めた。ようやく他のことを手伝えるようになった。そんな心境の時期だったに違いない。
 奇しくも「移民の日」1977年6月18日付エスタード紙に、岸本の訃報が掲載された。翌年には「日系社会の最盛期」の象徴とされる移民70年祭が盛大に挙行された。終戦直後の「混乱期」を収める役割を終え、「安定期」に入ったと実感した心境だったのではないか。
 『曠野の星』における岸本の信念は、「歴史は好むと好まざるとに関わらず、事実を事実としてその時代の姿有りのままに書くのが本当である。その時代の姿が美しかろうが、醜かろうが、偽りなく書けばよいので、そこに人類の進んでいく方向があり、移民の辿ってきた大地があるのだ」 (『蕃地』434頁)というものだった。
 「事実を事実としてありのままに書く」ことは一見簡単そうだが、異国に住む移民が、戦争中の事実に関してそれを実行することは、最も難しいことだった。
 認識派が「勝ち組大衆」を強引に抑えつけようとした原因は、独裁政府が怖かったからだろう。いまの日本政府が、米国の言いなりなのを〃恐米〃と表現する論者がいるが、認識派はおそらく〃恐伯〃だった。
 ところが、勝ち組の主張には「戦前戦中に不当な弾圧を日本移民に対して行ったブラジル政府は、いずれ日本軍が上陸した暁には懲らしめられる」という想定を含んでおり、『戦野』に代表されるように、その言葉には政府批判の視点、〃トゲ〃が常にあった。
 コロニア指導者やデリケートな二世エリート層、戦前の親日派ブラジル人がDOPSにいじめられていた戦中、勝ち組大衆は移動を禁止されたおかげで、「戦勝国への帰国」を目標にしてひたすら農作業に集中し、むしろ資金を貯めていた。
 言い方を変えれば、勝ち組大衆の心には日本帰国を願望とする想いが「温存」され、戦前のコロニア指導者層は戦中に資産凍結や拷問、勾留監禁によって心を挫かれていた。
 戦前には共に「日本戦勝」を信じて疑わなかったコロニア同胞が戦中の異なる体験を通じて、全く別の考え方を持つようになり、その温度差が終戦の8月15日を境に一気に表面化した。(つづく、深沢正雪記者)