移民のふるさと巡り『メキシコ』(3)=ジアデマ 松村滋樹

 先日、メキシコ市内であった政治家に対するデモの裸踊り。見物する人は喜んで眺めているが、汚職に染まった政治屋が多いと国が廃退する。
 日墨協会での交流懇親会で、同協会の会長からラテンアメリカの国はどこも同じよと厳しい意見が出て、私はブラジル人の悪口を言えなくなった。ブラジルが世界の三等国のままで終わってほしくないと望んでいるが、ぐっと我慢しよう。

日墨協会にて

日墨協会にて

 ラテンアメリカ人は自我が強くいい加減だが、明るさと人懐っこさが取り柄だ。私達ふるさと巡りの一行はどこでも歓迎された。ホテルとレストランの従業員はぶっきら棒だが、街で接したメキシコ人は親切だった。もちろん、在メキシコの日本人も日系人も、ブラジルからやって来た私達を大歓迎して呉れた。
 肌寒かったメキシコ市から南メキシコに飛び、チアパス州の州都トゥクストラ・グティエレス市の空港に到着。真夜中だが蒸し暑い。椰子の木に囲まれたホテルの部屋に入り、エアコンを点けちょっと涼む。そのまま寝入ってしまって、エアコンの音で途中目が覚めた。
 翌朝、早めの朝食を摂り、バスに乗り込む。真っ直ぐに伸びた街道の周りはアマゾンの様な山や草原だ。景色の単調さにほとんどの人が居眠りを始めたが、私は目を凝らして南メキシコの植物相を観察した。ブラジルにもある様な木も、珍しい木もあり、興味深々だ。四時間後アカコヤグァに到着。
 暑さの中、日系人墓地にお参りする。今から百年以上前に、日本人初の海外移民として南メキシコに理想郷建設の夢をかけてやって来た「榎本殖民団」の墓である。

榎本殖民団上陸の地

榎本殖民団上陸の地

 日本を出発した36名の若者は、航海中に一人死んで残った35人がプエルト・マデラ(サン・ベニート港)に到着。そこから炎天下を徒歩でタパチューラまで歩いた。日射病で倒れた仲間を気遣い数日休養。エスクイントラまでの百キロは涼しい夜に移動。辿りついた目的地はジャングルで、理想郷とは裏腹に、土地選定の誤算、予想外の雨季、マラリア発病、資金不足、一部の若者の逃亡騒動と1年をたたずして崩壊する。
 漫画メキシコ榎本殖民史『サムライたちのメキシコ』によると、その後、残った殖民団員が再建に青春をかけ、日墨協働会社を創立。南メキシコで大成功を収めたとある。彼らはメキシコ革命、第2次大戦と幾多の困難を乗り越えながらも、常にメキシコの為にと働いた。
 アカコヤグァにある『日系移民百周年記念学校』は、榎本殖民の子孫とその後の移民達が力を合わせて建てたこの地方の有名校だ。中心人物の春日カルロス氏は笑顔の絶えない気さくな人だが、メキシコの教育と産業発展の為に毎日を捧げている芯の強い人である。今でもメキシコに理想郷を築く榎本殖民の精神が残っている事に私は気付いた。 
 暑い最中、日本着を着た子供達が汗だらけになって童謡『紅葉』を歌ってくれた。お昼の会場となった学校に向かうと、7百名の生徒達が校門から教室までずらりと並んでブラジルとメキシコの旗を振って熱烈歓迎。目頭が熱くなり、一世一代の大感激だった。先日、来聖された秋篠宮と紀子さまを私達も旗を強く振ってお迎えしたが、あの生徒達の笑顔が懐かしかった。

着物を着たかわいい子どもたち

着物を着たかわいい子どもたち

 日陰に入っても南メキシコは暑くて汗が吹き出る。そこに冷たいおしぼりが配られた。なんとやさしい『おもてなし』なのか。ただ感謝!冷たいアグァ・デ・フルッタとおいしいチアパス料理が出る。生徒達が奏でる軽快なマリンバの音が響き、先住民の古代からの衣装を纏った蝶々の様な踊り子が恋の踊りを披露。続いてお百姓さんと村の娘さんの収穫を喜ぶ踊り。農業の神様に感謝するのはメキシコ一番の農業州である証。周りの椰子の木も風にそよいで踊っている。
 夕立が来そうな夕方、お世話になったチアパスの日系人や学校の生徒達に別れを告げる。「お世話になりました、又来ま~す」と約束して。
 バスの窓から幹が太くて高い樹が見えた。冠の様な枝が木の天辺を覆う。セサル君がポチョタの樹(学名セイバ)だと教えてくれた。ブラジルで良く見られるパイネイラの樹である。マヤの先住民は母なる樹、聖なる樹と呼び、樹上に聖なる鳥ケッツアルが止まっていると崇められている。私達はセイバの樹にさようならして空港に向かった。(おわり)