パラグアイ=入植地調査よもやま話=坂本邦雄=(9)

 この少佐の兵科は、元は空軍ではなかったのが、例の1947年の大革命中、政府軍の偵察機の偵察兵として搭乗し任務に当っていたが、ある日パイロットが敵弾で即死した為に、急遽自分で飛行機を何とか操って無事着陸し助かったというエピソードで有名な軍人だった。
 それが病み付きで兵科を替えて航空将校になった訳だが、チャコ地帯等の地理は自分の手の平のように詳しかったという。
 瀬川技師はお陰でこの名パイロットのお世話になった訳だが、乗った飛行機はエアタクシー会社の物か軍用機だったのかは私には分からなかった。
 こうして、瀬川技師を無事アスンシォンへ送り出して、田中技師と私は、世話になったエスタンシアを辞し、サンフアン・ネポムセノ町で求めたガソリンとオイルを注ぎ足し、オープンカーになったジープで、サンフアン・ネポムセノ経由アバイ駅へ向った。
 アバイ駅を目指したのは当時旧中央鉄道のボルハ駅からのファサルディ支線がまだ健在だったので、そこから列車でニュミ駅まで行く事にあった。
 その日は便が無かったので一晩アバイ町に泊まり、翌日の列車で無蓋貨車にジープを載せてニュミ駅へ着いて、さて降ろそうとして見たらジープに被せて来たビニールのシートに無数の焦げ痕が有り、穴だらけである。パラグァイの汽車は古いSL機関車で薪を焚いて走るので煙突から盛んに火の粉が噴き出し、乗客も気を付けないと良く服を焦がされる事があったものだ。    
 さて、ニュミ駅で下車した田中技師と私は、当時はパラグァイの第2の都市と言われたヴィリャリッカ市へ向った。でも同市に到着したのはもう夕方で遅かったので田中技師にここでもう一晩一泊しましょうと相談し、ホテルに泊まった。
 さあ、明日は〃緑の魔境〃とも称される豊かな千古の自然林、無類のテラローシャ沃土などを日本人入植適地予備調査の為にジープで色んな経験をしながら強行踏破した挙句、アスンシォン市に戻るのだと多少は感傷的な気持ちも沸いた。
 翌日は、出発した時とは一変しオープンカーになってしまった吾がジープを駆って、アスンシォン市まで161キロの国道を一気に走ったが爽快だった。
 珍しい無蓋のジープで行く真っ黒に日に焼けた我々東洋人を行き交う車の人達は不思議そうに見ていた。
 瀬川技師を先に送り出してから2日後にアスンシォンに帰り着いた田中技師と私を待っていたのか、その翌日の夜は公使公邸でまた晩餐会に招かれた。
 どんな話が交わされたか良く覚えは無いが、おそらくはジープの小川転落の顛末や踏査地方一体の調査に纏わるテーマだったろうと思う。
 私はジープの事故で怒られでもしないかと、ちょっと心配はしていたのだが、瀬川技師が、「坂本君のジープの運転技術は無類で、山の中での方向感覚が優れているのには驚いた」と褒めてくれ、会社でも何んらの咎めはなかった。
 私が今思うのは、日パ移住協定に基づき開設された戦後の各日系移住地は、当時のパラグァイ政府が提唱していた所謂「三角プラン」の線に沿って、日本政府が絶好の立地条件の土地を求め開拓したのは、瀬川調査報告書が基本的に重きを成した結果だと解せないかという事である。
 まさに移住者の生命は入植地の土地の良し悪しで左右されるのである。
 東京のJICA本部にその時の『瀬川レポート』なるものがもし残っていれば一度改めて見たいものだと思う。(おわり)