南米メディア王シャトーと日本移民の関係

ポレミックな映画『Chatô』を報じる2015年11月12日付ベージャ・サンパウロ誌サイト

ポレミックな映画『Chatô』を報じる2015年11月12日付ベージャ・サンパウロ誌サイト

 昨年末公開された〃ブラジルのメディア王〃アシス・シャトーブリアン(1892―1968)の生涯を描いたブラジル映画『シャトー』(ギリェルメ・フォンテス監督、2015年)を観て、「英雄色を好む」を地でいく性癖、時の政権との〃癒着〃、広告を出し渋る企業へのゆすりも辞さない〃剛腕ぶり〃、現金をばら撒く拝金主義的あり方に愕然とした。首相にまでなった伊メディア王シルヴィオ・ベルルスコーニに似ている▼シャトーは1920~50年代にかけて新聞社34社、ラジオ36局、テレビ18局や通信社を創立買収して「ジアリオス・アソシアードス社」(DA)を育て上げ、南米最大のメディア集団の総帥として君臨した人物だ。先の大戦直後に荒廃した欧州で美術品を買いあさり、パウリスタ大通りのMASP美術館を創立したことでも有名▼彼が南米初のテレビ局ツッピーをサンパウロ市に開局した1950年、開局直前に技術指導にきた米国人技師は、シャトーに「セニョールは放映機材に500万ドルを投資したが、何人が視聴できるか知っているか。ゼロだよ、ゼロ」と告げたとの逸話がある▼南米初のテレビ局であり、当然ながら受像機を持っている一般家庭はなかった。テレビ局開局しか頭になかったシャトーは、受像機のことなど考えてもいなかった。米国から正規輸入では2カ月かかる、そこで急きょ200台を密輸する――とんでもない剛腕さと行き当たりばったりさ加減が同居する人物だ▼ちなみに日本のテレビ本放送開始は1953年だから、3年も早い。ただし1948年から試験放送を始めていたし、国営NHKが計画的にやったから、シャトーの場合とは対照的だ▼彼は日本移民史とも関係のある人物として以前から関心を持っていた。『コラソンエス・スージョス』を刊行したばかりのフェルナンド・モライスを取材した際、「シャトーの執事をしていた日系女性に取材した時に初めて臣道聯盟という言葉を聞いた。彼女の父親がその幹部として監獄に入れられた時も、彼女に頼まれて出してやったりしていたという逸話がある。そこから勝ち負けの取材を始めたんだ」と語っていた。それを聞きながら日本移民史はブラジル近代史の一部だとしみじみと感じた▼DAが1929年に買収したサンパウロ市の朝刊紙ジアリオ・デ・サンパウロは、33年6月29日に日本移民25周年特集号別冊を出した。なんと32頁もあり、日本移民を特集したブラジル最初の新聞だ。翌34年にはその内容をまとめて本『Brasil e Japão Civilisações Completam』(日本とブラジル、補完し合う文明)まで出版した▼1924年にDA最初の新聞『オ・ジョルナル』を買収した資金は、南部3州に鉄道を通して開発しようとした米国人企業家パルシバル・ファルクァールが調達したという。この米国人の壮大な構想にほれ込んだ東京シンジケートの青柳郁太郎が、いずれサンパウロ市と南部3州をつなぐ鉄道が通るに違いないと考えて、レジストロ周辺の開拓を企画し、日系初の桂植民地が生まれた▼思えば、日系初のテレビ番組『イマージェンス・ド・ジャポン』が1970年に放送開始したのは、あのTVツッピーだった。同テレビ番組を作った奥原マリオ清政の息子マリオさんによれば、日系初のテレビ番組の初司会者は池田レイミで、件の女性執事の娘だった▼調べてみるとTVツッピーを買収したのが、カメロー(露天商)から叩き上げてテレビ局社長になった成金主義者シルビオ・サントスのSBT局。社長自らが現金をばら撒く番組の司会をして人気を呼んでいるあの放送局だ。「今もシャトーの遺したDNAは、あまり変わっていない」ことに愕然とした。(深)

 

映画の紹介映像(ポルトガル語)
http://mais.uol.com.br/view/1xu2xa5tnz3h/filme-chato-o-rei-do-brasil-ganha-primeiro-trailler-04020E1B316CDCA15326?types=A&