『百年の水流』開発前線編 第一部=北パラナの白い雲=外山脩=(87)

北パラナの地図

北パラナの地図

 彼の明るく個性的な性格は、非日系の社員たちから好かれたという。
 仕事は、会社の植民地のロッテの販売だった。見込み客は、主にサンパウロ州に居る同胞だった。彼が、1930年、ロンドリーナの植民地へ、その見込み客を率いて乗り込み、最初の購入者とさせたことは、先に記した。
 その後も懸命にロッテを売って歩いた。1932年、ブラジル政府がカフェーの新植を禁止した時は、パラナ州は対象外とされたため、ロッテはよく捌けた。ところが――すでに二度触れたことだが――その後綿の景気が出、見込み客の移動への意欲は薄れた。さらに戦時中は、政府の敵性国民の転住監視などもあり販売は難航した。
 だから氏原彦馬の土地売りは、非常な苦労をした。前々章や前章で、トゥレス・バーラス移住地やピリアニット植民地のロッテ販売が、氏原のために難航したと書いたが、氏原も楽々とやっていたわけではなかったのである。
 しかも、北パラナの土地の悪評をバラまく同業者が多かった。マレッタの多さ、地権の不確実さ、米作不適地……といった類いの誹謗中傷が広まっていた。
 対して氏原は猛烈な宣伝で巻き返した。もともと「大の宣伝好き」であったから、楽しみながらやった。車の横腹にポ語で「北パラナ唯一の宣伝人―氏原彦馬 1922年より」と大書して走り廻った。フェスタなど人が集まる機会があると、探検家の様なヘルメット、長靴姿で現われた。
 「アレは誰か?」と関心を惹かせ、商談に結びつけるためだった。
 同じ姿で、邦人の集団地を東奔西走「北パラナは地味良し気候よし。この機会を逸しては、禍根を子々孫々に残すこと、火を見るよりも明らかであります」と演説した。 自ら「北パラナの権化」と称し「同胞の入植地として諸条件を完備しているのは、北パラナ土地会社のロッテ以外になし」と豪語した。
 サンパウロから来た日本総領事の歓迎会の席上、挨拶に立ったものの、その宣伝をやり始め、歓迎の辞を忘れてしまった。
 何しろ好きでたまらないことをしているのだから疲れを知らない。悪評をバラまいていた同業者も、圧倒されてしまった。
 戦後になると、チバジー河以西への潮の様な勢いの入植現象が起こった。その中には日本人の姿も多かった。これは、棉作の採算が悪化する一方で、カフェーが大好況期に入ったからである。西へ西へと開発前線は延びて行った。シリリカと呼ばれた。
 北パラナ土地=開発=会社が売ったロッテの内、日本人の購入分の殆どは、氏原の手を経たといわれる。1955年、引退するまでに1千家族以上を導入した。
 氏原彦馬は明治人らしく、常に故郷の上八川を意識して生きていた。
 「私は殖民事業を通じて、他の業者のように日本人移民を食い物にして私腹を肥やすことは、亡き御両親様や御先祖様に罪を犯すことであり、絶対にできません」と、知人への手紙に書いている。
 実際、責任を持ったロッテの売り方であった。彼は実は、会社の「何処そこの植民地のロッテを……」という命令に従って売ったのではなかった。自分で、会社の所有地を徹底的に歩き、林相、地質、地形、気候その他を調査、選びに選んだ。気に入った土地が見つかると、アーサー・トーマスを説得して、そこに植民地をつくらせ、その中に日本人用のロッテを確保した。それも、少しでも意に副わぬ部分は切って捨てた。