「ある日曜日」(Um Dia de Domingo)=エマヌエル賛徒(Emanuel Santo)=(6)

「両親は忙しかったですが、いつも僕を可愛がってくれました。店を閉めた後は、いつも三人一緒に夕食をとり、疲れていてもその日の出来事や相談事を聞いてくれました。日曜日の午後は、日本語を教えてくれたり、公園や遊園地に連れていったりしてくれました。家族三人が元気に楽しく過ごしていたあの頃が、本当に懐かしいです」
「そうか。親が愛情を惜しまなければ子供はりっぱに育つし、そういう親はあとから子供に愛してもらえるんだ。最近の日本じゃ、同じ屋根の下で暮らしていても、会話のない家族や、金を与えても愛情を与えない親が多いらしいけど、南米にはまだ古きよき時代の日本の家族が残ってるな」
 そんな状況が、1990年代になって一変した。日系人の日本への出稼ぎブームの到来である。「出入国管理及び難民認定法」の改正により、日本国籍をもたない日系人とその家族にも「定住者」の資格が与えられ、原則として日本で就労する際の制限がなくなった。
 その頃ブラジルの景気はあい変わらず悪かったが、日本にはまだバブル景気の余韻が残っていたため、サンパウロ市に住む日系人がこぞって出稼ぎに出かけ、店は多くのお得意さんを失った。リカルドはその頃高校を卒業したが、大学進学を先に延ばして、病気がちな母親に代わって父親を助ける決心をした。
「さっきのおじいさんの話じゃないですが、日系人の子供は本当に頭がいいんです。たとえば、サンパウロ大学では、十人に一人が日系の学生です。日系人の親は教育に熱心だとも言われています。僕も高校での成績がよくて、学校の先生や両親は大学に進学することを強く勧めました。でも、僕は親を助けることを優先しました。大学にはいつでも入れますから」
 知り合いの多くが日本に行く中で、リカルドの父親は先代が始めた店をつぶすまいと息子と共にがんばった。二人は、毎日夜明け前に卸売市場に出かけて生鮮食料品を仕入れ、外人のお客がもっと来るように店の品揃えを工夫した。そうした苦労の甲斐があって、贅沢をしなければ家族三人何とか暮らしていけた。
「店の仕事を本格的に手伝うようになって、両親がどんなにきつい思いをして働いていたか分かりました。お母さんが体を壊すわけです。働きながら子供を育てるのは、本当に大変だったろうと思いました」
「そうか。大学なんか行くより、人生でもっと大切なことを学べたじゃないか」
 ところが、世紀が変わり、とんでもない不幸が続けて一家を襲った。サンパウロ市内は、長引く不況の影響で治安が悪化していたが、リカルドの父親が、店の売上金を銀行に預けに行く途中でピストル強盗に襲われ死亡したのだ。
 父親は銀行に行く時はいつも車を使っていたが、交差点で信号待ちしていたところを、うっかり開けていた窓の隙間からいきなり撃たれた。事件の状況から、強盗と店の従業員の誰かがつるんでいた可能性がある。
 そして、さらなる不幸は、この事件にショックを受けた母親が、あとを追うように他界してしまったことだ。
「突然の出来事で、頭が混乱しました。それまで両親がいなくなった時のことなんて考えたことがなかったですから、どうしたらいいのか分かりませんでした」