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軽業師竹沢万次の謎を追う=サーカスに見る日伯交流史=第4回=1886年に聖市で絶賛された一座

1886年2月28日付エスタード紙にでたシルコ・ペリの広告に日本人軽業師の演目がある

1886年2月28日付エスタード紙にでたシルコ・ペリの広告に日本人軽業師の演目がある

 ウルグアイ、アルゼンチンで公演しているなら、当然ブラジルでもしているはず――と考え、聖州で一番古くて現存する新聞「エスタード・デ・サンパウロ」紙のデジタル・アーカイブ(電子書庫)で探してみたが、見つからなかった。
 おもえばサツマ座のウルグアイ、亜国公演は1873年。エスタード紙の創刊はその2年後、1875年だった。当然電子書庫はその年以降しかない。あとはリオの新聞の記録を探すしかないのか…。
 ただし「シルコ」「ジャポネース」などで検索して見ると、1880年代のエスタード紙に三つの広告を見つけた。
   ☆   ☆   
 一番古いのは1886(明治19)年2月28日付で「ペリ・サーカス」(Circo Pery)というポルトガル系子孫「マノエル・ペリ」が創立したサーカス団だ。体操やアクロバット、奇術、手品などが中心だが、その中に「手のひら40個分の怪物〃日本の階段〃(A escada japoneza)」という演目が含まれており、「つま先で均衡を保ち、上に子供の軽業師」と書かれている。
 一種のバランス芸だ。「手のひら40個分」の意味は、手のひら=22センチ、40なら8・8メートルなので、そのぐらいの高さの階段の上で、曲芸をするという意味か。しかも、子供が披露したのだろう。
 広告には、この演目とペリ団長の息子と思われるジャチーニョ・ペリによる「ナイアガラ飛行」(サーカステントの端から端に渡した綱を渡る「綱渡り」か)の二つしか書かれておらず、同サーカス団の中心演目だったことが分かる。

1886年9月7日付エスタード紙にもコンパニア・ジャポネーザの告知。「喝采を浴びた」と賞賛

1886年9月7日付エスタード紙にもコンパニア・ジャポネーザの告知。「喝采を浴びた」と賞賛

 エスタード紙の同じ年1886(明治19)年9月4日付には、「コンパニア・ジャポネーザ」(日本のサーカス団)との文字がある。本文の内容はわずか3行で「このサーカス団は本日、サンジョゼ劇場で様々な演目を行う」のみ。
 たった3行だが、少なくとも「1886年に日本人軽業師一座がサンパウロ公演」していた事実を雄弁に物語っている。
 1886年9月7日、前述の広告の翌月、「コンパニア・ジャポネーザ」についての9行の告知記事がある。いわく「土曜日、日曜日は最終日となる。この日本のサーカス団は色々な種類の興味深い演目を見せ、良き競争を巻き起こして拍手喝采を浴びた。すべての芸人はみな良く練習を積んでるが、特記されるべきは曲馬乗りを披露した二人の少年だ。あれを超える技は真実ありえない」とまで短い記事の中で絶賛している。
 少なくとも130年前、1886年の聖市では2月、9月の2回も日本人軽業師を見る機会があった。そのことだけは間違いない。(つづく、深沢正雪記者)

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