北米日系の苦難「追憶の日」=豊かな漁場追われ途方に=「排斥ムード」今と似る

 【ロサンゼルス共同=伊藤光一】第2次大戦中の1942年、ルーズベルト米大統領が日系人の強制収容に道を開く大統領令を発してから19日で74年。毎年この日は米国で「追憶の日」と呼ばれ、日系人関係者らが苦難の歴史を振り返る。強制移住を体験した2人の日系人に当時の話を聞いた。
 巽幸雄さん(95)と和歌山県出身のチャーリー浜崎生平さん(93)は、戦前に海を渡った日本人たちの一大漁場があった、ロサンゼルス近郊のターミナル島で暮らしていた。主に和歌山県と静岡県出身の約3千人が漁業に従事していたという。だが付近に海軍施設が多く、国防上の理由で48時間以内の退去という、他の地域にない厳しい退去命令が出た。
 巽さんは「住み慣れた家から慌ただしく出た」と回想する。所持品はトランク2個分だけで父の経営する水産加工会社も解散。行き先不明の移送バスに長時間揺られ、砂漠に近いカリフォルニア州マンザナー強制収容所に隔離された。大人たちは「これからどうなるんや」と途方に暮れた。収容所は鉄条網に囲まれ、共用トイレは仕切り扉もなく、囚人のような扱いだった。外出できたのは終戦後だ。
 真珠湾攻撃があった41年12月7日(日本時間8日)、漁船のエンジンが故障して島の港にいた浜崎さんは、連邦捜査局(FBI)に逮捕された。兄が日本軍にいたことによるスパイ容疑だったようで、「イスラム教徒を排斥する今のムードと似ている」と感じる。
 大統領令が出た後、南部アーカンソー州の収容所に送られたが、所外で労働する条件で釈放。全米を転々とした。農作業や機械工をしたが、生活基盤は弱く物乞いも経験。白人の友人に強制収容の話をすると「なぜ居住の自由を奪われるのか」と一様に驚かれた。
 日系人だけで編成した米陸軍442連隊などが欧州戦線で際立った活躍を見せ、米国社会に少しずつ日系人への理解が広がった。浜崎さんは「立派な青年が大勢死んで、信頼が少しできた。差別は誰にでもある。平等なんぞ闘って勝ち取るものや」と日本語で話す。
 39年から大漁続きで新築住宅が並んだターミナル島。今は繁栄の跡形もない。家屋は破壊され、漁業権を剥奪されて戦後も戻れなかった。戦前に漁業をしていた日系人は2人を含め4人が生存しているだけだ。