軽業師竹沢万次の謎を追う=サーカスに見る日伯交流史=第9回=チャリニ曲馬団同行説

チャリニ曲馬団、1874(明治7)年に日本公演した時のアジア横断巡業のルート(ロペス論文)

チャリニ曲馬団、1874(明治7)年に日本公演した時のアジア横断巡業のルート(ロペス論文)

 万次がいつ、どうやって渡伯したのか――この謎を解くカギはどこにあるのか。鈴木南樹は「1870年頃」に来たと書くが、どうやって来たかに触れていない。今まで見てきた中で、考えられるのは次の三つだ。
【サツマ座同行説】ウルグアイ、アルゼンチンで1873年に公演したサツマ座が、ブラジルで公演した広告は今のところ見つかっていない。でも、もしやこのサツマ座が渡伯し、その一人が当地に残って万次を名乗った―との可能性。
【日本人軽業師一団同行説】1886(明治19)年9月4日付エスタード紙や、1896(明治29)年8月6日付同紙にあるような、サツマ座以外の日本人軽業師一座に同行して、一人だけ居残った可能性。今見つかっている広告の日付からすれば、南樹の「1870年頃」よりも年代は遅くなる。
【日本人以外のサーカス団同行説】エスタード紙で一番古い広告、1886(明治19)年2月28日付にある「ペリ・サーカス」(Circo Pery)のような日本人以外のサーカスの一員として渡伯し、万次だけ居ついた可能性。
 三つ目について調べている間に、《ブラジルの万次はドン・ペドロ二世の体操教師に雇われたとあるが、ちょうどその時、イタリアのチャリニ曲馬一座の一人がドン・ペドロ二世に雇われていたから、二人は日本の話などで馬が合ったに違いない》(『サ物語』133頁)との記述を思い出した。
 この『チャリニ曲馬一座』は米国カニフォルニア州を本拠地にして世界的に興行を行い、2度もブラジル巡業しているチャリニ・サーカス団(Circo Chiarini、ポ語読みなら「キアリニ」、以下チャリニC)のことだ。もしや同サーカス団が日本公演をした時に、軽業師が同行を申し出て、ブラジルに連れて来られたとの推測もありえる。
 論文『A contemporaneidade da produção do Circo Chiarini  no Brasil  de 1869 a 1872(1869年から1872年のブラジルにおけるチャリニ・サーカスの制作の現代性)』(ダニエル・デ・カルヴァーリョ・ロペス、UNESP、2015年、以下ロペス論文)によれば、同サーカスの創立者はジゼッペ・チャリニ(1823―1897)。16世紀から続く旅芸人の家系としてローマで出生、欧州、ロシアで芸の修業をし、1850年頃から英ロンドン、米ニューヨークで経営者としての経験を積み、1856年にキューバで自分のサーカス団を創立した。
 シルコペディア(21日参照、www.circopedia.org/Giuseppe_Chiarini)によれば、《19世紀における最も影響力を持ったサーカス経営者》と最高の評価を下す。多国籍な団員を抱え、その当時に欧州、南北アメリカ大陸、オーストラリア、インド、アジアを巡業して回ったイタリア人コスモポリタンだ。
 ロペス論文によればブラジルには2回巡業、なんと日本には3回も巡業している。この一行に加わって渡伯したという推測は十分に成り立ちそうだ。(つづく、深沢正雪記者)