軽業師竹沢万次の謎を追う=サーカスに見る日伯交流史=第11回=実は意外に多い日本人同行者

曲芸師川村駒治郎(『サ物語』203頁)

曲芸師川村駒治郎(『サ物語』203頁)

 大武和三郎(当時17歳)は1889年7月、横浜に寄港したアルミランテ・バローゾ号のアウグスト・レオポルド殿下に気に入られ、同乗を許された。太平洋横断中に「帝政崩壊」となったが、翌90年7月にリオへ無事に帰港した。この大武が、笠戸丸以前の代表的な〃神代の世代〃の人物であり、戦前移民の多くが世話になった『葡和辞典』(1918年)を編纂した恩人だ。
 だが、それもよりも早い時期に日本人軽業師が来ていた。このようなブラジル船に同乗するとか、外交使節団の一員になるとか、特別な機会がなければ当時、地球の反対側まで来ることは不可能だった。
 第9節から紹介している「チャリニC同行説」が正しければ、万次の渡伯は1875年であり、大武より15年も早い。とはいえ当時、サーカス団が気に入ったからと言って、日本人が一員に加わることは可能だったのか――。
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 『サ物語』(198~201頁)には日本が生んだ稀代の天才学者・南方熊楠が青年時代、明治24(1891年)に植物採集のためにキューバ島を訪れた際の話が出ている。その時、なんとチャリニCに加わっていた日本人が南方熊楠の宿泊するホテルを訪ねてきたという。
 京都出身の曲馬師・川村駒治郎(芸名・京極駒治)とその弟2人(為吉、口吉)さらに、象使いの百済与一、足芸の長谷川長次郎、豊岡新吉ら5人もの日本人がチャリニCの巡業に加わっていたという。
 《京極駒治は明治二十年、京都御苑内でのチャリニ曲馬一座を見学し、その魅力にひかれて一座に同行した》(199頁)とあり、2回目の日本巡業の時から同行しているようだ。とすれば案外それほど難しいことではなかったようだ。
 チャリニCは多国籍な人材を擁する大規模な技能者集団であっただけでなく、人が見たがる珍しいものをなんでも詰め込んだ移動動物園の役割も担っていた。
 ロペス論文48頁にある1883年3月2日付「Diario do Brazil」紙記事よれば、曲芸師80人、馬43頭、象3匹、ヒトコブラクダ2頭、シマウマ2頭、アフリカのライオン数頭、ヒマラヤの熊、マダガスカルのマンドリル、スマトラやボルネオの変わった猿、マレーシアのクロヒョウ、変わった鳥類などがいた。馬の曲芸、人のアクロバットを中心に、動物園的なものが複合した見世物であり、当時としては非常に大規模な集団だ。世界中を巡業しながら各地で珍しい動物などを集め、それを見世物にどんどん加えていった。
 であれば、チャリニ曲馬一座の第1回日本巡業の1874年9月の時に「竹沢万次」が魅了されて同行を始め、1875年にブラジルまで来て大いに気に入り、モンテヴィデオ市で興行中にイタリア娘と結婚し、アルゼンチンでの興行を終えた後、一座を離れてブラジルに戻ったことは十分にありえそうだ。
 『サ物語』には《竹沢万治一座の人気も嘉永年間(註=1848~54年)までが頂点であったか、その後の消息が分からない。江戸幕藩体制が終わりを告げ、明治も7年たってやっとその消息が伝わってくる》(124頁)とある。
 初代の竹沢藤治は1858年に巡業先の下関で亡くなった。そこから一座の〃消息〃が途絶え、復興を果たした「父の追悼興行」はようやく明治8(1877)年だ。その間の食えない時代に、初代一座メンバーがチャリニに魅了されて同行、渡伯したのではないか。(つづく、深沢正雪記者)