軽業師竹沢万次の謎を追う=サーカスに見る日伯交流史=第12回=ブラジル芸人初訪日は1887年か

ジゼッペ・チャリニ(ロペス論文49頁)

ジゼッペ・チャリニ(ロペス論文49頁)

 さらに調べてみると、サーカス事典シルコペディア(21日参照、www.circopedia.org/Giuseppe_Chiarini)によれば、チャリニCの1874年の極東巡業時に関して《一座はあまり目覚ましい活躍は出来なかったようだが、チャリニは日本人軽業師一座を連れてくることに成功した》と書かれているのを発見し、思わず膝を叩いた。おそらく、これが「ブラジルの万次」だ。
 その先には1882年10月16日のバンコク公演の演目には、《日本人曲芸師キチゴロと息子》と書かれている。当時、東南アジアに巡業にでている日本人軽業師は相当数いたから、そのような人物が現地合流した可能性がある。
 このキチゴロと息子が「ブラジルの万次」だった可能性も考えられる。それなら1874年の日本興行で同行を始め、翌75年にブラジル巡業で土地柄を気に入り、その後も同行を続けて、90年代前半の南米興行の時に分かれて、ブラジルに舞い戻ったのかも。
 これは本拠のあった米国でぜひ調べてほしい点だ。サーカスの同行者名簿、給与支払簿などがあれば同行者が分かるのではないか。同シルコペディアによれば、1886年の第2回訪日公演の際の様子が詳しく書かれている。
 同サーカスは《7月末に横浜、長崎、神戸、京都、大阪、東京でも公演した。このイタリア系多国籍サーカス企業が日本に入国申請した際、メンバーにはイタリア人、アメリカ人、ドイツ人、オーストラリア人、フランス人、英国人、ギリシャ人、オランダ人、13人のマニラ出身者もおり、楽隊付の大規模な編成だった。この日本公演は大成功し、11月には東京で明治天皇による天覧に浴した。サーカスをご覧になるのは初めてで、しかも5千ドル分の金をお与えになった。日本が西洋工業社会に国を開いた明治という時代の、重要なイベントであった》と書かれている。
 さらに《ヨシュウ・チカノブ、マサノブ・サクラダイら日本人芸術家はチャリニCへの称賛の声を惜しまなかった》。楊洲周延は江戸末期から明治期にかけて有名だった浮世絵師、サクラダイは不明だ。

チャリニ曲馬団の京都御苑興行ビラ(『サ物語』175頁)

チャリニ曲馬団の京都御苑興行ビラ(『サ物語』175頁)

 ただし、『サ物語』にはチャリニCの日本公演は「明治20年」(1887年)となっており、ロペス論文の1886年、1889年とは少々食い違う。この1887年の京都公演の時のメンバーをよく見ると、興味深いことにブラジル人が混ざっていた。
 『サ物語』174頁にも多国籍な団員が紹介されており、イタリア人、米国人、英国人らに混じって《ブラジル人ピー・サントス》という名も。どんな芸を見せたかと言えば《ピー・サントスが大蛇を体にまきつけたりする大蛇使いもチャリニ曲馬一座の呼び物であった》(同181頁)とある。
 サーカス芸人は国際化の最先端にいた。この当時、いったい何人のブラジル人が日本の土を踏んでいたのか。
 『ブラジル人国記』(野田良治、1927年、博文館)326頁によれば、歴史上、日本に最初に上陸したブラジル人は1874年にフランス天文観測団に加わっていたフランシスコ・アントニオ・デ・アルメンダだ。2番目は1880年に海軍少将ジャセグアイが清国との条約締結の帰路に日本に立ち寄った。この時は船で来ているから複数のブラジル人が上陸しただろう。よって、ピー・サントスは3人目というよりは「ブラジル人訪日3度目」だ。
 これもまた隠れた日伯交流史ではないか。(つづく、深沢正雪記者)