軽業師竹沢万次の謎を追う=サーカスに見る日伯交流史=一世紀半も受け継がれる家=第17回

現在もサーカスに出演するオリメシャ一族のフェイスブックの経歴ページ(https://www.facebook.com/Olimecha.Family/info/?tab=page_info)

現在もサーカスに出演するオリメシャ一族のフェイスブックの経歴ページ(https://www.facebook.com/Olimecha.Family/info/?tab=page_info)

 ブラジルの早竹虎吉も、竹沢万次同様、同じ一座でやっていた〃近い筋〃のものが名乗っていた可能性が高い。
 ブラジルに来た「フランキ・オリメシャ」は1854年に大阪で生まれたと伝承されているから、1867年に米国公演した時に座長なので、13歳ではオカシイ。年齢的には渡米時に早竹虎吉一座に参加した子供芸人ではないかと思える。
 それならば、渡伯時の1888年に34歳の働き盛りだ。海外興行の生活を続けてブラジルまで流れ着き、長い巡業生活を経て、ここに定住したと考えるのが妥当ではないか。しかし、なぜ「オリメシャ」を名乗ったかは謎だ。
 『日本人登場/西洋劇場で演じられた江戸の見世物』(08年、松伯社)の第4章に「早竹虎吉とそれに連なる芸人たち―虎吉は何人いたのか」とあるように、超有名人だけに自称襲名するものもいたようだ。
 サンパウロ総合大学コミュニケーション学部(ECA―USP)サイトの「ニロエル・シウヴェイラ」データベースの「サーカスとその家族」によれば、オリメャは1888年渡伯とある。
 《日本の大阪生まれのHaytaka Torakiche(早竹虎吉)の息子、世界を興行してまわるために発音しやすい「Charles Frank Olimecha(英語読みチャールズ・フランキ)」と名乗る。1888年に渡伯し、結婚した後、Carlos Franco Olimechaとサインするようになる。7人の息子、1人の娘。父から受け継いだ日本芸人団を率いた。フランキ・ブラウン・サーカスの一部としてブエノス・アイレスで興行した後、ブラジルに戻り、1900年に自らのサーカス団を設立。体操が特に強く、カルロスの息子マヌエリットは1908年から35年まで、後方2回宙返り(salto duplo com pirueta)で席巻した》
 第15節に出たカルバーリョ論文には、シルコ・オルメシャはバイア州奥地セルトンのど真ん中にある町セニョール・ド・ボンフィンで、笠戸丸移民からわずか3年後の1911年に興行していたとある。
 同町での2回目の興行は1927年で、ランピオンとマリア・ボニータがカンガセイロ部隊を連れてセルトンを縦横無尽に駆け抜けていた時代だ。もしやどこかで交流があったかもしれない。まさにブラジルの歴史の一部だ。
 2015年現在でオリメシャ一族の2人は、「Flying Olimecha 2015」のように今もサーカス団に入り、国際的な興行を続けている。経歴のページには、はっきりと「日本に起源を持つ家族」と書かれている。
 空中ブランコなどの彼らの動画がネット上には多数挙げられており、見る事ができる。フェイスブックからのメッセージとメールで質問を送ったが、残念ながら返答は得られなかった。
 それにしても、幕末の日本世代から入れれば、おそらく5世代目か6世代目、一世紀半以上になる。1880年代、最初にブラジルに住み着いたであろう日本人家族の一つ。その末裔が幕末からの職業を、国境を超えた地球の反対側で、今も受け継いでいるとは驚きだ。
 しかも従来の日本移民史には1行も触れられていない。(つづく、深沢正雪記者)