今世紀に急増、最大行事へ=宝蔵神社大祭概史=ブラジル人参加、拡大する大祭=熟年信者が往時を語る

 第1回開催時には、参加者が200人程だった宝蔵神社大祭も、近年では2万人以上もの信者が集う、ブラジル生長の家最大の行事となった。参加者増大の背景を探るため、往時を知る在伯信者らに話を聞き、その変遷を辿った。

 1957年4月1日、晴天となったこの日の朝、イビウーナ練成道場前に、一台の軽トラックが到着した。同地から約600キロ離れたパラナ州アサイ市から来たこの車を出迎えたのは、約200人の生長の家信者達。荷台にはこれから末永くブラジル信者らの霊が祀られていくであろう宝蔵神社の御社が納められていた。
 御社は道場内の最も高い場所に移され、鎮坐祭と第一回目の宝蔵神社大祭が行われた。元ラ米教化総長で当時24歳だった向芳夫さん(82、二世)は、初めて見る御社から「とても厳かな雰囲気を感じた」と60年前のことを印象強く憶えている。
 日本では3年後の1960年に京都府宇治市の生長の家別格本山に宝蔵神社が造営され、谷口雅春初代総裁は「霊界との直通の場所と言うものがまず建設されることが、非常に重大な意義を持っていくのである」と機関紙「聖使命」でその意義を説いている。
 生長の家の教えでは、物質世界と霊界は互いに影響しあう形で並存し、全ての人の魂は、実相世界(神が創造した円満な世界)に至るため、肉体の有無に関わらず、その徳性を高めていくことが求められる。
 宝蔵神社大祭の先祖供養は、自身よりも徳性の高い霊から実相世界へ至るための加護を得られるだけでなく、生長の家の教えを知らず霊界で彷徨っている霊に対して自らが手を差し伸べ、実相世界へ導く役割を果たす機会となっている。

万国移民を祀る『拓人の聖塔』

 1963年、谷口氏が初来伯すると、在伯信者らは渡伯55周年を迎える日系移民のための先没者慰霊塔の建立を計画し、谷口氏に許可を仰いだ。谷口氏は、導くべき霊に人種、国籍の区別は無いと語り、ブラジル開拓に尽くした万国の移民を祀る『拓人の聖塔』の建立を指示した。
 生長の家信者の熟年者で組織する塩稚の会で会長を務める中村晃児さん(84、愛媛)は「生長の家にブラジル人信者が多い理由が『拓人の聖塔』の建立の経緯を見るだけでも分かる気がする。『拓人の聖塔』からは生長の家は日本人だけでなく全人類を救い導くのだという意思が伝わってくる」と語る。
 その後、65年には、拝殿、幣殿、大鳥居が建て加えられ、宝蔵神社の全容が整えられた。また、同年にはブラジル人への布教を目的としたポ語機関紙「ACENDEDOR(点灯者)」が刊行される。同機関紙は88年に月間発行部数が60万部を記録するまでに成長し、ブラジル人間の普及に大きな役割を果たした。
 同機関紙の普及が軌道に乗り始めた1968年当時の青年会会長で、宝蔵神社大祭の司会経験もある平島昭夫さん(76、二世)は「道路状況も悪い中、全伯各地から沢山の人が集まって下さってとても感動した」と当時を思い出すに感慨深げだ。

ポ語練成会、TV中継開始

 その後、1971年にはポ語での練成会が開始され、75年にブラジル人信者の受け入れ態勢が十分に整ったことから、TVによる宣伝が開始される。78年には初のブラジル人講師も誕生し、ブラジル人への布教は順調に進んでいった。
 日系人参加者が大半だった大祭もブラジル人参加者が増え、ポ語での伝道に力を注いできた山岡正登さん(77、二世)は、「御先祖様を心から愛念込めてお祀りする事の大切さを、民族の壁を越えて伝える事が出来嬉しかった」と当時を懐かしむ。
 そして、85年には流産児無縁霊供養塔が宝蔵神社境内に建立され、宝蔵神社大祭とあわせて供養が行なわれるようになる。90年代には大祭参加者も5千人を超えるほどになり、それ以降も着実に参加者数は増加し、2002年には9千人を突破。翌年には「1万人を超えるか」と予想されたが、一挙に1万3千人の参加を記録する。

240万柱の御霊に祈る

2003年の宝蔵大祭の様子。大祭の意義が再認識されたことにより参加者は前年から4千人増の1万3千人を記録した

2003年の宝蔵大祭の様子。大祭の意義が再認識されたことにより参加者は前年から4千人増の1万3千人を記録した

 生長の家は当時、南米13カ国に支部を設けるほど大きくなり、宝蔵神社は、南米全体の聖地となっていた。世界的な拡がりを見ていく中で、宝蔵神社大祭の中心を担うブラジル信者らの間に、自身らの持つ責任を自覚し、宝蔵神社大祭の意義を改めて見直そうという動きが生まれた。
 当時の役員らはそうした会員らの声に応じ、宝蔵神社大祭の要旨をまとめたパンフレットを配布し各教化支部で講習を行い、TV告知も積極的に行った。こうした取り組みが功を奏し、参加者の急増に繋がった。
 納められた霊牌の数が前年の23万柱から約3倍の73万8千柱に増えていることからは、信者らの宝蔵神社大祭への理解の深まり、霊界との関わりをより大切に思うように意識が変化していることが伺われる。
 こうしてブラジル生長の家最大の行事となった宝蔵神社大祭は、07年に参加者が2万人を超え、09年には、インターネット中継を開始。会場となるサンパウロ州イビウーナ市まで来られない信者も最寄りの教化支部で大祭に参加できるようになった。また、インターネット中継は国外在住信者に好評で、13年には約1万人がインターネット中継を利用した。
 現在では約270万柱(2009年現在)の御霊に祈りを捧げるまでになった。60周年を経て発展し続ける宝蔵神社大祭に対して、生長の家中央委員を務める福田進さん(98、山口)は「これからも真心を持って続けて行ってもらいたいです」とその前途を手放しで祝した。

ブラジルで34年、赤痢快癒の奇跡=宝蔵神社大祭までの歩み

谷口雅春初代総裁

谷口雅春初代総裁

 生長の家の歴史は1930年、初代総裁・谷口雅春氏が日本書紀にも登場する住吉大神から「今起て!」と啓示を与えられたというところから始まる。
 谷口氏はこの出来事をきっかけに『生命の実相』を出版、生長の家を立ち上げた。程なくして同書を読んだ者の中から「重篤だった病が奇跡的に癒えた」とする者が現れると、世間の注目が集まり、信者の数も増え始めた。
 ブラジルへの伝播も間も無く始まる。1934年、サンパウロ州パウリスタ線ドアルチーナ市に住んでいた松田大二郎氏は、強烈なアメーバ赤痢に罹り、病床に臥していた。ある時、一冊の本が目に留まった。弟の巳代志氏が隣家から借りていた『生命の実相』だった。
 大二郎氏は同書を一読して病が快癒。奇跡の体験者となってからは、生長の家の教えを信奉し、巳代志氏と共に伝道活動を開始。2人は当地における生長の家の教えの第一人者となった。
 教えは次第にノロエステ線、セントラル線、ソロカバナ線、アララクワラ線の各沿線の都市、パラナ、南パラナ州へと広まっていった。
 1939年、第2次世界大戦が勃発するとブラジル内において、日系人の集会や日本語の使用を禁ずる政策が執られ、生長の家の信者らも活動自粛を余儀なくされた。

ブラジルでの生長の家普及に貢献した松田大二郎、巳代志兄弟(左から)

ブラジルでの生長の家普及に貢献した松田大二郎、巳代志兄弟(左から)

 終戦後、各地域の指導者らは信者同士の繋がりの回復に励む。これは戦時中に孤立化した信者の再結集を図ったものだけでなく、勝ち負け問題による信者間の分裂を防ぐためでもあった。
 その甲斐もあり、1951年には、初の全伯組織となる「生長の家ブラジル総支部」が設立される。総支部はブラジル中の信者と日本の生長の家からの協力を得て、大規模な建設事業となる「イビウーナ練成道場」建設を55年に、「総支部会館」建設を56年に成功させ、ブラジルにおける基礎を築いていった。
 そして57年には、大国主命と在伯信徒らの霊を祀るための宝蔵神社を建立し、第一回目となる宝蔵神社大祭開催へと歩みを進めていくことになる。

 

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