県連故郷巡り(北東伯編)=歴史の玉手箱=第23回=苦労絶えなかったピウン植民地

交流会で乾杯する様子

交流会で乾杯する様子

 北大河州日伯文化協会の青木イサシ・ミウトン会長は「僕は南米銀行のナタル支店に勤務し、その当時1996年9月12日にこの協会を創立した。98年に南銀が吸収合併された後も、この町に残った」と自己紹介した。「町で日本人の顔を見かけると一人一人声をかけて、だんだんグループを大きくていった」という情熱家だ。
 今回の旅で話を聞きながら、サンパウロ州出身だがコチア産業組合や南銀の関係で、北東伯に赴き、そのまま居残った人はかなり多いと痛感する。この町ならではの海軍や空軍に勤務した日系人でそのまま残っている人もいるとか。「あとはピウンなどの移住地から出てきた人が20人ほど。10年間日本に住んでいたという非日系人も含めて、約250家族の会員がいる。日本文化の普及を目的に活動をしている」という。
 08年の移民百周年では、ナタウ市役所と一緒に日本人ナタル入植52周年を兼ねた式典を市議会で開催し、在レシフェ日本国総領事、地元出身上院議員も出席したという。「今年はピウン入植から60年。ナタル日本人入植60周年として何かできないか考えている」と思案中だ。
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長島俊行さん

長島俊行さん

 交流会の会場には、ピウン(Pium)植民地で育った長島俊行さん(としゆき、67、栃木県)が来ていた。連邦が設立した移住地だったが、いまは国立植民農地改革院(Incra)管轄になっているという。
 「アメリカ丸で1956年7月8日にレシフェに上陸、ピウンに入植したのは10日だった。僕はまだ8歳。一緒に10家族が入ったのを覚えている」という。この10家族が第一陣だった。陸、海、空軍などに野菜を供給する目的で、日本移民を中心に創立された移住地だった。
 「日本人は全部で45家族、ブラジル人35家族が入った。日本人は朝早く起きて、暗くなるまで仕事をした。会議を招集しても、ブラジル人は2、3人しか来ない。彼らにはやる気が感じられなかった。入植者選びに問題があったと思う」と振りかえる。
 一家族に13ヘクタール。森林伐採、開拓から始めた。最大の問題は土中の塩分の濃さだった。
 「州政府にはピウン川水利工事の責任があった。ピウンは海岸に近いから塩水が川を逆流して、農地に浸透し、下側の土地ほど塩分が濃くなった。州政府は水が逆流しないように、隔壁と汲出しポンプを設置すると約束していたんですよ。でも、いくら陳情してもダメ。それで下側に入植した人ほど早く出て行った。上の方も4月に洪水になって、その水がひくのが8月。その間、何も植えられないという状態だった」。
 2、3年後には日本人入植者の中でも諦めて帰国するもの、ペルナンブッコ州やアラゴアス州に転住するものが相次いだ。長島家ではキュウリ、白菜、ナスなどを生産した。
 「ところが、野菜を生産するためにできた移住地ですから、みんな一生懸命に作った訳です。でもナタルでは誰もそんな野菜を知らない、食べない。仕方なく、ペルナンブッコまで野菜を売りに行く必要があった。とにかくこの町の人は野菜を食べなかった。いくら作っても消費されないんです。でも量産して売らないと野菜は商売にならない。ここで売れる野菜はアルファッセ(レタス)、コエントロ、玉ネギ、トマトだけ」。まったくの計算違いだった。(つづく、深沢正雪記者)