県連故郷巡り(北東伯編)=歴史の玉手箱=第24回=北山さん「死ぬまでピウンに」

 ピウン植民地で育った長島俊行さんは「ロサンゼルス経由の船で来た日本移民が、スイカをそこで買って種を持ち込んだんですよ。最初、庭先に植えてうまくいった。1958、9年頃かな、それを本格生産してみたら出来がいい。ナタルの町に出したら『メロン・ジャポネース』として有名になった。その生産は1970年頃まで続きました」という偶然による綱渡りのような奇跡的成功譚もあった。
 州政府の怠慢に苦しむ植民地を、突然、悪夢のような事故が襲った。
 主要な家長が一台の車に乗って、レシフェに陳情に行くとき、事故に遭い、死傷したのだ。長島さんは「あれは僕が大学1年の時だから1970年頃。海外移住振興会社(JAMIC)か総領事館に行くはずだった。家長らが乗ったジープが横転事故を起こした。北山さんは死亡、父も重傷を負って目が見えなくなった」という。
 最後の方まで残っていたのは松苗家、田中家、宮川家、北山家の4家族だったという。「ピウンの歴史を書いた記念誌の様なものはあるの?」と聞くと、「一冊もない。ジョアキン・ノブコ研究所に植民地に関する論文が一つあると聞いたことがある」との回答だった。この機会にしっかりと書き留めなければ、と肝に銘じた。
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北山初江さん(左)と娘のテレーザさん

北山初江さん(左)と娘のテレーザさん

 北山初江さん(95、熊本県水俣市)は第一陣組だ。56年にピウンに入植して以来、唯一、今も住み続けている。1970年、夫は例の自動車事故で亡くなった。
 「夫は朝6時前に家を出て、ジープでレシフェに向かっている途中、事故に遭った。その知らせを聞いて信じられなかった。ほんとにガッカリしたわ。痩せて、痩せて。もう仕事をする気が起きないの。女一人で子供は7人。言葉は分からないし、どうしていいのか分からないのよ。でも子供たちのために、毎日泣きながら仕事をしたわよ」と辛い過去を振りかえる。
 移住15年目に夫が亡くなり、以来、女手一人で育て、みな大学まで行かせた。「とにかく花を作って売った。グラジオラス、ゼブラ、サマンバイア。レシフェやナタルから買いに来てくれた」。今は車椅子にのり、子供たちに支えられている。
 「子供たちは町に住んでいるけど、休日は家に集まってくれるので楽しみ。主人は早くに亡くなったから、子供を育てるのが大変だった。一生懸命に仕事をしたわ。でも今は逆に、子供が助けてくれる。愛着があるこの土地から離れることはできない。死ぬまでピウンにいたい」。北東伯の〃移民節〃に引き込まれるように聞き入った。
 交流会の現地側出席者の自己紹介のとき、北山さんの孫は「祖父母は最初、お金を稼いで数年で変えるつもりで来たが、ここに根を生やした。僕らはそのことを誇りに思う」と言っていたのを思い出した。たしかにそうだろう―と頷いた。
 最後の方まで同植民地に残っていた宮川家の一人、宮川富雄さん(77、長野県)は1956年に4人で渡伯した。
 「海協連から『果樹ができる』と聞いてやってきたら、とんでもない。カジューだったんだよ。ウソにだまされたんだ。野菜を作ったらナタルに売れるとか言われたのに、全然売れない。移住前に説明された条件と全然違うって、皆怒っていたよ。それにあの交通事故は植民地にとって本当に打撃だった。30年ぐらい前に子供の教育ために植民地を出た」と語った。(つづく、深沢正雪記者)