日本移民108周年記念=囚人の署名 平リカルド著 (翻訳)栗原章子=(1)

第1章

苦いコーヒー

 ガラスもなくカーテンもない裸の窓からは、朝日がサンサンと差しこんでいた。風もないのに歩くたびに埃がまいあがり、その日もまた朝から暑い夏の一日になることが予想された。一九三八年一月は、農家にとっては日照りが心配される年だった。もう日照りが二十二日間もつづき、まっ青に晴れわたった空には、天気が変わる兆しもない。天気は相変わらずで、そしてまた家のなかの親子関係も相変わらずのいがみ合いがつづいていた。
   ☆ 
 その朝、また二人は口論をした。
 夜が白みかけたころ、平兵譽(たいら・へいたか)は、もうスーツ姿にネクタイで、木造の貧しい家の土間を踏んで出て行こうとしていた。
 そのとき、父親の善次郎が現れ、野良仕事を手伝うように言いつけた。何しろ兵譽は一度も種の蒔きつけや収穫など、家の仕事を手伝ったことがなかった。兵譽は五人兄弟の長男だったが、畑仕事よりもっと大切なことがあると冷たく言い放つのだった。
 当時、善次郎は家ではまだ着物を着ていた。最後の一枚がすり切れて、着丈も短くなり、足首が丸出しになっている。そんな家のなかでは、かまどの火が赤々と燃え、お茶を淹れる湯が沸騰していた。
 日本移民のおおかたは、サンパウロの奥地のコーヒー農園に配耕されたのだが、平の家族はその合間にフェイジョン豆、綿、とうもろこしなども植えた。そして家の周りには自家用にレタスやバジルや他の葉野菜もあったが、多くて食べきれないときは、残りを朝市場の商売人に売るのだった。
 家のなかはといえば、板の食卓、二脚の長い床机椅子、箪笥が二つ、そして藁をつめたマットが土間に並べられているだけであった。便所は家から二〇メートルくらい離れたところに小屋を建て、床に穴を掘っただけのものだった。何年か使用していてその悪臭に耐えられなくなると、穴を塞ぎ、別な場所に穴を掘り、小屋を移動していた。
 手洗いは家の外壁に備え付けてある台の上に鉄の洗面器が置いてあるという具合だった。そこに目の高さにつるされた鏡があり、兵譽はその鏡を見ながら薄い髭をそり、透明なドロドロしたクリーム状のものを髪に塗りつけていた。たぶん、ポマードの前身といったシロモノであったろう。
 母親の幾千代はいつも朝、いちばんに起きていた。彼女は起きるとすぐ鶏小屋へ行き、とうもろこしなどの餌をまき、卵を籠にあつめ、水がめの水をとり替える。鶏はすぐ、水がめに頭を突っ込み喉を潤す。その時間になると、家では思い思いのかっこうで四人の子らが足を引きずるように起き出し、コップ一杯の水、一かけらのパン、果物、少しのお茶を飲み、一日の畑仕事に備えるのだった。
 お茶が入ったニッケルのカップを手に、善次郎は兵譽が表門に向かって歩いていくのを見つめていた。門を出ると小川に沿って砂利道があった。その小川の水は畑の潅水用に使われていたが、日照りのため水が干上がり一本の細い線になっている。その川にはトラックが通れるように太い幹で支えられた木橋があり、そこを渡って小石が敷き詰められている街道を行くと、ツパンの町に出ることができた。ツパンは一九二九年にサンパウロ州の奥パウリスタ鉄道沿線に造られた町である。
 兵譽はいつも出かけるとき、行き先もいわず、何時に帰るかも家族に告げることがなかった。兵譽と父親は、外見上よく似ている。まっ直ぐな癖のない黒髪、日に焼けた赤銅色の肌、そして二人とも一六五センチと似たり寄ったりの背丈をしていた。善次郎は息子をどのように扱えばいいのか、もう分からなくなっていた。
 いつも心臓に痛みがあり、その痛みが普通とも思われず、いつ何時か、家族を置いたままこの世を去るかもしれないという危機感を抱いていた。さらに自分の死後、何の蓄えもない家族を路頭に迷わさなければならなくなるかもしれないという不安、わけのわからない長男息子、などで胸がつぶれる思いがするのだった。