自伝小説=月のかけら=筑紫 橘郎=(11)

 いよいよ、千年(ちとせ)太郎君の名が出た。次いで野口節男君、二名はピエダーデ郡在住の岩下与一さんへと指名され、岩下氏は手を振っている。
 千年君と野口君二人は、岩下氏の元へ深々と頭を下げて挨拶していた。そして外で待ち構えていた車の運転手さんに、岩下氏が「待たしたな。荷物を積みましょう」と声をかけた。後ろのドアから二人の荷物を積んだ車は、一路ピエダーデ市へ。
 まずパトロンの岩下氏は、運転手を紹介しながら「この車は家の物じゃない」といい、運転手を指して「この人の車だ。家には車が無い。だから今日一日、知り合いの田代さんにお願いして都合してもらった。これからピエダーデの町に一寸寄って、それから家に行く。気楽にして下さい」とのこと。
 車は街道をひた走り、ピエダーデ郡まで約七十キロメートル。組合のピエダーデ出張所に到着した。岩下氏は出張所主任と打ち合わせがあるらしく、千年、野口君二人を紹介して、何やら日常品をかなり買い求めた。
 そして青年二人に、「今後は一カ月に一回くらいは、ここに来て骨休みをしたら良か。ブラジルはまだ日本のように遊び道具は無いから、せいぜい町を見たり聞いたりしたら良か。それじゃ、ぼつぼつ帰りますか」というと、また車に乗り込んで、今度は州道とは違って、曲りくねった土の道の郡道を走り始めた。
 まずおどろいた事に、ブラジルは大きく広い大地と思ってきたが、何んと道の両側は山また山の泥んこ道。ほとんど人手の入っていない原始林のど真ん中ではないか。太郎君は多少緊張気味の様子。一時間くらい車は走り、町とは名ばかりの小さな小さな舗装した一角に出た。この町に隣接してかなり広い広場もある。
 岩下氏は、次のように注意を呼びかけた。
「ここには外資の(外国資本)のかなり大きな寝台製作工場があり、地名はビ―ラ・エルビオと言う。昼間は従業員もかなり目立っている。だから昼間は心配ないが、夜は全く人通りが無いので、絶対に外出は禁物。これだけは絶対に守ってほしい。この辺一帯は広大な海岸山脈で、かなり野生の猛獣が住宅の廻りまでうろつく事がある。非常に危険だ。現地土着民でも、夜間は屋内の明かりは消さない」。
 斜め前方にかなり広々とした畑が見えてきたころ、運転手さんが「皆さん着きましたよ」と言った。
 町から二十キロ、一時間くらいかけて岩下家に着いた。もう夕方の六時頃だが、真夏とあって夕日は高い。岩下家の前に十人程度の人が出て来た。まことに色が黒い。良ぅく見ると、確かに日本人である。千年、野口、二人の新来日本人を「見せ物」でも見るような格好で見つめている。
 中でも子供は、大人の陰から興味深く、恐る恐る顔を出していた。一目で岩下氏のご子息と見てとれた。千年と野口は、お出迎えの一人一人と固い握手して、「御世話になります。よろしくお願いします」と言葉をかけたが、ハッキリと日本語で返事してくれたのは二人くらいしかいなかった。
 その間に、運転手と若いのが訳のわからない言葉をしゃべりながら、荷物を全部、家の中に入れてくれた。
 岩下氏ご婦人はまともな日本語で丁寧に家の中へと誘い入れてくれた。スーと気がほぐれた感じになった。家の中に入り、奥さんから青年二人の部屋へ案内された。「ここが、これからあんた達の御城だよ」。