自伝小説=月のかけら=筑紫 橘郎=(20)

 矢野養鶏部長が「千年君どうかね、良いところだろう」と訊いた。
「ハイ驚きました。随分広いですね。しかし、これだけ広けりゃ、気持ちが良いですね。でも、ちと気になりましたが、あのマモンは(果物)は切ってもよろしいですか。あれは鶏には外敵だと思いますが」
「ほう―、良く気がついたな。さすが千年君だ。今から予防を始めるとは。我々も見込んだだけはある。その調子でよろしく頼む」
「それにしても余りの広さ。一体計画はどうなっていますか」
「計画書はサンパウロから持っては来てはいるが、まず何より先に、試験場らしい形態の敷地整備準備と整地を頼む。近いうちに測量技師を寄こすから、彼と相談してくれ。ああそうだ。君の相談役として本部から一人古参の従業員を常駐して貰うから、その人が来るまでに、整地ができそうな人材を取りあえず十四、五人集めて置いてくれないか。
 この街の新聞等に広告を掲載する段取りは付けておいた。そうだ、君の寝起きする所だが、一先ずこれから連れて行く。だが、先ほど農場の入口の道端のボテコ(田舎の小さな食品等の小間物店)があっただろう。あそこで君が当分寝泊まりして、種鶏場らしい立派な鶏舎を建設しておいてくれ。そのうち事務所や従業員住宅も充分建てる予定だ。とりあえず君に任す。資金は町の出張所に言ってくれ給え。後は頼んだよ」
 いやはや、こんな事をしたことがない。見た事ない。だが日本を出る時、若干二十一歳の履歴書には、「実家は養鶏場。特技は大工」とご丁寧に書いてあったのだ。その上、先の行方(なめかた)家は養鶏農家、あそこで鶏飼い鶏舎作りは証明済みとあって、有無を言わさず実行する羽目となったようである。
 とにかく、彼、千年太郎(ちとせたろう)には、どうやら生まれつき、故郷の土地柄であろうか、親の人柄か、かなり強い信念と智看(ちみち)な先入観が備わって居るようだ。何事も、計画性と目的をいかに発揮出来るか、有利に進めるか、常に感が働き、何事もウロタエない。小柄でユーモラスなところが人に接する態度、どことなく感じられる仁徳があるのかも知れないと思われているようだ。
 やる事、なす事、すべからず慎重である、欠点は危ない橋は見事に渡らない、だから大物には成れない、などと陰口叩かれても華々しい栄誉は性に合わない。自身で「月のかけら」的行動言動を好むので有ろう。彼の口癖は「親の教えは尊いものよ」。若芽は大事に見守るべしが、信念らしい。
 そうこうしている内に半年がたった。このころには農事試験場らしく従業員も十カ家族以上に成り、サンパウロ本部から古参の木村と名乗る人が場長として赴任して来た。中々気さくな良い人で、千年太郎君を何事にも頼りにして呉れる。太郎君としては職場に支障はなく、賑やかに職務順調に進んだ。
 ある日、新入りの日本人青年がガララッぺス市から種鶏場に這入って来た。取り立てべつに変わったところはなかったが、彼にはガララッぺス市では有力者の義兄、大塚氏が居られた。この方がどうしても義弟のために、木村場長と千年君に遅ればせながら一献差し上げ御挨拶がしたい、是非ご来宅願いたいと、義弟・山中仁君を通じてお誘いが来た。
 木村場長は仕事より、お酒が仕事と自任する程の人。即座にお受けした。次の土曜日午後に伺いますと即答した。