歴史的なオバマ大統領広島訪問=実現の立役者・被爆当事者たち=「雲一つない晴れた朝、空から死が降ってきて、世界は一変した」=サンパウロ市 毛利律子

広島に投下された原爆によって巨大なキノコ雲が生じた(米軍機撮影)。キノコ雲の下に見えるのは広島市街、その左奥は広島湾(By Enola Gay Tail Gunner S/Sgt. George R. (Bob) Caron [Public domain or Public domain], via Wikimedia Commons)

広島に投下された原爆によって巨大なキノコ雲が生じた(米軍機撮影)。キノコ雲の下に見えるのは広島市街、その左奥は広島湾(By Enola Gay Tail Gunner S/Sgt. George R. (Bob) Caron [Public domain or Public domain], via Wikimedia Commons)

 アメリカのオバマ大統領が現職大統領として広島訪問を実現して今月の27日でひと月となる。しかし、世界中のニュースが氾濫する日常では、早や、忘れ去られようとしているのではないかと案じられる。
 6月3日のニッケイ新聞では、ブラジル被爆者平和協会の森田隆会長、鮫島義隆さん、盆小原邦彦副会長が概ね高い評価をして、「ずいぶん長い歳月を要したという感はあるが、米大統領として現職大統領が広島訪問したことは画期的だ」という談話が掲載されている。
 今年は、リオ五輪とほぼ同時刻に、広島県では平和記念式典が開催されるため、それに合わせて、サンパウロ市の広島文化センター(平崎靖之会長)でも毎年恒例の追悼ミサが行われるという。
 このたびのオバマ大統領の広島訪問は、広島・長崎への原爆投下について改めて考えるきっかけになった。オバマ大統領の名演説はもとより、この歴史的出来事を実現させたのは、政府ではなく、高齢者の被爆者たちの地道な活動によるものであったという報道に深く感銘した。

 立役者たちの想い

 第42回先進国首脳会議(伊勢志摩サミット)終了後の去る5月27日金曜日午後5時23分、アメリカ合衆国第44代オバマ大統領が広島を訪問した。広島に原爆を投下したアメリカの現職大統領の初めての訪問であった。広島に到着した大統領は平和公園に向かい平和資料記念館を見学。平和公園では歴史的な演説をした。
 その演説の後に、大統領は最も近くに並ぶ被爆者の代表者に挨拶し、握手を交わす中で、一人の人物を抱き寄せた。
 その人は森重昭(79歳)という、自らも被爆者でありながら、民間研究者として、原爆投下の際に、同じく被爆して亡くなった米軍捕虜12名について40年にわたる追跡調査をし、被爆米兵の遺族を探し当て、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館への12人全員遺影付きの登録を完了させ、アメリカの現職大統領広島訪問実現の立役者となった一人である。
 森氏によって解明したこの事実は、地元メディア広島テレビの「オバマへの手紙」キャンペーンで集まった広島市民の手紙とともに2年前にホワイトハウスに持ち込まれた。
 被爆者からの大統領への訪問を希望する手紙には、「私たちは大統領に謝罪を求めているわけではありません」「広島市民は大統領の広島訪問を待っています。謝罪ではなく、広島の地から、核廃絶への祈りを発してほしいのです」と認められていた。
 このような被爆者たちの地道で粘り強い行動こそが、米政権中枢を動かし、歴史的大偉業を実現させたのであった。

 「空から死が降ってきて、世界は変わった」

 オバマ大統領の平和記念公園での演説は、「71年前の雲一つない晴れた朝、空から死が降ってきて、世界は一変した。閃光と火の壁が街を破壊した。そして人類が自らを滅ぼす手段を持ったことを明示した。」したという言葉から始まる。
 「空から死が降ってきて、世界は変わった」。この冒頭の一文は、つとに印象的で聞くものを震撼とさせる。それでは、「死」はどのように「空から降ってきて世界を変えたのか」。
 1945年7月25日、トルーマン大統領が原爆投下指令を承認した。そして、午前8時15分17秒、広島の気温は26・7度、薄雲の視界良好の朝であった。
 エノラ・ゲイ号から原爆「リトルボーイ」が自動投下された。弾薬倉を離れたリトルボーイは横向きにスピンし、ふらふらと落下した。
 放物線を描きなが約43秒落下したのち、相生橋よりやや東南の島病院(2009年8月以降は島外科内科病院となった爆心地として知られる病院)付近高度600メートルの上空で核分裂した。
 このようにして、「死」は実際に「空から降ってきた」。さて、それではその「死」はどのようなものであったか。

 広島在住のドキュメンタリー作家イトウソノミ氏が2009年2月3日のブラジル被爆者平和協会の森田隆会長の講演会「森田さん半生を語る」をブログで紹介しているが、そこには原爆投下直後の悍ましい情景が森田会長から語られている。
 『憲兵に志願して東京の学校に行った。昭和20年に卒業し、8月1日に広島に来た。東京から広島まで来る途中、汽車から見た景色はどこの駅も破壊しつくされていた。
 しかし広島に着いて、その姿が変わっていないのに驚いた。8月6日、比治山の防空壕を掘りに行く途中で被爆した。何が起こったのか分からない状態だった。目の前の建物が瞬間的に潰れ、火の海になっていた。火傷をしながら市内に入った。無惨な状況だった。
 呉から来た練兵隊から落とされたのは「原子爆弾」だと聞かされた。被爆者の救助に当たった。2日間ほど飲まず食わずで救助した。しかし自分も火傷をしていたので大野町の陸軍病院に入院することになった。
 枕崎台風が来る前日、自分は退院したが、翌日の枕崎台風で土砂が崩れ、病院にいた人はみな死亡してしまった。
 戦後は広島市内で時計屋を営んだ。しかし1年後にぶらぶら病が出てきた。白血球が増えて寝込んだのだ。しかし愛する家族がいるお陰で「どうしても生きたい」という希望があった』
 「目の前の建物が瞬間的に潰れ、火の海になっていた」という状況は、すなわち、広島に落とされた原爆の爆風は台風の暴風エネルギーの1千倍、爆心地の地表が受けた熱線は通常の太陽照射エネルギーの数千倍に相当し、地表温度は3千―6千度に達し、屋根瓦は表面が溶けて泡立ち、木造家屋は自然発火した。
 爆心地の地表に到達した放射線は、1平方センチあたり高速中性子が1兆2千億個、熱中性子が9兆個と推定されているが、このような数値は到底一般の者には理解不能の数値であり、その結果は想像不能である。

 

「黒い雨」が降る

 落とされた原爆は地表から600メートルという低高度爆発であったため、炸裂によって上空1万6千メートルに達したキノコ雲は、猛烈な熱が上空で冷やされ雨となって降ってきた。それは地表に接して、爆心地に強烈な誘導放射能をもたらした。
 この雨は大量の粉塵・煙を含んだ、粘りっけのある真っ黒な大粒の雨で、これを「黒い雨」という。この雨は当然放射性物質を含んでいたため、雨を浴びた者は被爆し、土壌や建造物、河川を放射能で汚染した。
 爆心地より1キロ以内で屋外被爆した者は、7日間で90%以上が死亡。爆風によってガラスや建材が体に刺さる、爆風で飛ばされて重篤な打撲を負うといった外傷や、放射能症は即死、あるいは一か月以内に大半が死亡した。
 このように、第二次世界大戦(太平洋戦争)の実戦で使われた世界初の核兵器の一発は、当時の広島市の人口36万人(推定)のうち、9万~16万6千人が被爆から2~4か月以内に死亡したとされる。
 今日なお、長期的影響として苦しむ症例としては、ケロイド、放射線症としての白血病、精神的影響としての心的外傷後ストレス障害に止まらず、次世代への影響としての体内被曝による小頭症、身体の発育遅延により、これらが致命的症状の場合は成人前に死亡する。
 一度でも広島の原爆記念資料館を訪れたことのある者は、原爆投下直後のあの悍ましく破壊した町と人間の姿を忘れることはできないであろう。どれほど言葉を尽くしてもあの惨状を表現することは何人にもできないであろう。やはり自ら足を運んで事実と向き合わねばならない。

 この歴史に向き合う

 大統領は次のように述べる。「この広島の中心に立つと、爆弾が投下された瞬間を想像させられます。混乱した子供たちが抱いた恐怖感を感じ、声にならない叫びを聞きます。むごたらしい戦争、これまで起きた戦争、そしてこれから起こるかもしれない戦争による、罪のない犠牲者に思いをはせます。言葉だけでは、このような苦しみを表すことはできません。しかし、私たちは正面からこの歴史に向き合い、このような苦しみを再び繰り返さないためにできることを問う責任を共有してきました」
 さらに続けて、こう言った。
「いつの日か、証言をする被爆者の声を聞くことができなくなります。しかし、1945年8月6日朝の記憶は決して消してはいけません。その記憶があるからこそ、我々は現状に満足せず、道義的な想像力の向上が促され、変われるのです」
 この大統領の演説の言葉と同様に、森田会長も講演の最後を強い感慨を以って、次のように述べている。
 『そこで1984年に在ブラジル被爆者協会を設立した。27人が会員になった。協会ができて29年目、80名に増えた会員の名簿を持って来日した。厚生省に行くと開口一番「日本を出て外国に行ったのじゃあないか。今さら日本に何をいうのか。税金も払ってないじゃないか」と言われた。
 あの冷たい態度は今も忘れない。このたび会名をあらためた。「ブラジル被爆者平和協会」にした。今まで小学校から大学まで証言をしている。今後も被爆者証言を行っていくつもりだ。
 昨年は移民100周年でサンパウロでも原爆展を開いた。大きな成果だった。今回、ピースボートで世界を回り、あまりにも原爆のことを知らないのに驚いた。若い人には過去の話しとしてではなく、核の恐ろしさ、放射能の怖さを伝えていきたい』
 大統領は最後に、次のようにスピーチを締めくくった。
「我が国のように核兵器を持っている国は恐怖の論理から脱し、核兵器のない世界を目指す勇気を持たなくてはいけません。私が生きているうちに、この目標を達成することはできないかもしれませんが、たゆまない努力で破滅の可能性を少なくすることはできます。・・・中略・・・広島と長崎は、核戦争の夜明けではなく、私たちの道義的な目覚めの始まりであるべきです」
 いつの時代も戦争反対の声は上がる。しかし、為政者はいとも簡単に暴力を高邁な理由にして正当化し、戦争が起きる。
     ☆
 筆者は狭く小さな井の中に棲む蛙であるが、このたびの歴史的出来事について、周りの友人・知人に尋ねてみた。
 そして、ほとんどの人が自分と同じように「ブラジル被爆者平和協会」のことを知らず、またこのニュースに特別な関心を寄せたわけではないように見受けられ、繁忙な日常の時間の流れによって、すぐに薄らいでいったようである。
 戦後生まれの世代や、これからの世代は、戦争の記録を紐解けば次々と現れる歴史的事実と真摯に向き合い、「戦争の本質」を学び、真に目覚めなければならないこと強く考えさせられる。
そして、原爆被害者の言葉、「恨みを根に持つという文化は、日本にはありません。あれは戦争であった。けれど、大切なことは、平和です。誰よりも過酷な運命をいきた被爆者自身が、恨むこともなく、謝罪も求めず、ただただ、感じてほしい、そして霊をとむらってほしい」というこの誇り高い思いと言葉を忘れてはならず、「ヒロシマ」「ヒバクシャ」の歴史を語り継いでいかねばならない。