自伝小説=月のかけら=筑紫 橘郎=(25)

 千年は「私が誠心誠意アタックしてみます。笑わないで下さい。これは私が単身、家族に別れ、ブラジルに渡る時から心に誓った信念のひとつです。ですから、私はあの幸子と言う娘が欲しい。一生離れはしません」と一気にぶちまけていた(後に、ご老体が「あの時の千年の剣幕には、魂が籠もっていた」と家族や世間に話し噂さになったとか)。その事は後日話題になる。
 ご老体自身は、その足で星田家に息子の車で送らせ、母親と娘幸子さんに、一部始終を物語り、この縁談に勝る人は無しと、半ば強引に纏めた。それには、ご老体の裏の手があった。つね日頃から亭主を早く亡くした星田家の相談に、家族ぐるみで相手になっていたのだ。誠に目出度しと相成った。
 その日の内に、千年太郎には伝えられた。千年太郎二十五歳、星田幸子二十四歳、一九六一年正月の五日。そして太郎の仕事の関係で、二月十一日、晴れて結婚式決定の運びとなる。しかし、ここに至って太郎には重大事態が持ち上がった。なにぶん事を急いだ事に端を発している。余りにも婚礼を急いだ。それには、ひとえに太郎の職場に関わる事情があった。
 つまり農業試験場とて生産性種鶏場である。昼夜を問わず勤務が必要なため、従業員も場内に家族で住まわせ、鶏の管理飼育は四六時中見守る責任重大な仕事なのだ。独身では務まらず、陰日向(かげひなた)なく連れ添う伴呂なしでは、事の完遂はおぼつかない。そのような事情もあり、太郎は身を固める決心と相成った。
 しかし、それらに対する蓄えは「からっけつ」の文なし(お金なし)。日本民族文化が息気づく戦前気質のブラジル日系社会では、結納金が必要。これも「ゼロ手もち無し」、ましてや披露宴の費用などある訳が無い。所帯道具も丸でなし。無い無いずくめで嫁取りとは、相当の無神経漢に違いはないようだ。
 そうしてまでも我が意を通した〃厚かましさ〃は天下逸品、と町雀の話題になった。かくして披露宴は五百人の大宴会。これまた話題の日伯料理で、この町では当時珍しい大盛会であった。
 婚約の日には、余りに多い結納金に、「太郎さんはかなりの蓄えを持っていて、新婚生活は楽しい暮らしに間違いない」と友達や近所の人に羨ましがられ、嫁になった幸子が羨望の的になっていた。
 ところが、さて嫁いでみたら何にもない。有ったのは、大きな机とべッドだけ。「あの喜びは、家に入った途端吹っ飛んだわ」と後日、事あるたびに出てくる会話となっている。あの宴会費用はと聞いたら、「あれは家の母と上野のおじさんが半、半ずつ出したそうよ」と幸子に聞いた。それほど二十五歳の太郎はご近所から信用され、期待されていた事になる。目出度し、目出度しなのだ。
 だが、三月も経たぬうちにアチバイアの南伯(スールブラジル農産組合)農事試験場の育雛部主任として移転する事と成った。
 そこでも理事長・中沢源一郎氏、場長・小河原氏、養鶏技師・中村氏のもとで働き、随分と鶏飼いの勉強ができた。そして数カ月が過ぎたある日の事、背の高い、いかにも威厳のありそうな偉丈夫(男性)が、千年太郎の前にはだかった。
 咄嗟に太郎は、「すみません。ここは勝手に入ってはなりません。事務所の許可無しでは、出這入り厳禁です」と何か返答しそうな人を、有無を言わさず追い返した。しばらくして、小河原場長が顔色変えて飛んできた。
「おいおい千年君。君は何と言うことをするんだ。さっき、ここに理事長さんが来られたろう」
「ええっ、誰か来られましたが…」