日本移民108周年記念=囚人の署名 平リカルド著 (翻訳)栗原章子=(18)

 兵譽は杉俣政次郎が両親に宛てた手紙を読んで驚かされた。彼が悲しみのどん底にあることを知れば両親はもっと嘆き悲しむことであろうから。 手紙には次のようなことが書かれていた。
 《お父さん、お母さん、お会いできる日を待ち望んでいます。また、兄弟たちにも会いたいです。ここに閉じ込められているのは拷問に等しく、苦しいです。
 寝ることはほとんど不可能です。不気味な静けさを破って時々聞こえる痛苦にうめく声や咳、大鼾のために寝られない夜を過ごしています。私たちのグループは静かに規律正しく行動していますが、隣の檻ではブラジル人が問題をよく起こしています。彼らの間では不穏な空気がよどんでいます。
 もうだいぶ前から周りの人に迷惑をかけないために黙っていますが、特に夜などは体中が我慢できないほど痒くなります。ある人は皮膚がかさかさに乾燥しているためだといい、ある人は疥癬かダニのせいだと言います。今では胸や足などが赤く膨れ上がり、痒みも増すばかりです。医者の診察を受ける許可も出ました。でも、医者が処方してくれた塗り薬はほとんど効果がありません。
 ここでの食べ物も最低です。いつも焼け焦げた油の強い臭いが鼻をつき、何口か食べた後、気分が悪くなる仲間もよく見かけます。家庭の味や家族との生活が懐かしいです。どうか、私に会いに来てください。私たちの仲間は最も訪問者が少ないです。私は家族から見放されたような気分がしています。どうか家族のことをいつも思っている息子を見捨てないでください。政次郎》
 兵譽は手紙を書かず、黙然と故郷で過ごした幸せな日々を反芻していた。
 彼は無理やり、家族が一緒に暮らすためにそこから連れ出されたのであった。平和な日本を歩き回っていたこと、学校のこと、武芸の稽古のことなどを懐かしく思い出していた。14歳の時から彼の興味は家から遠い所にあった。
 それはある日、仕事を探すという口実を設けて、日本の首都、東京に向かったことでもわかる。冒険であった。彼は父親善次郎がついて行くことに失望を禁じ得なかったが、それは父と子の真心が通じ合うことができた数少ない一時でもあった。
 その旅は九州の島から本州に渡るために関門海峡を船で渡り、馬車や汽車を乗り継いで城の多い大阪を通りすぎ、賑やかな東京にやっと辿り着けるものであった。
 善次郎には菓子、乾燥果物や果物の砂糖煮などの商売の可能性について調べるための旅であったが、すぐさまこの首都圏では彼が入り込む余地がないことをさとった。
 店やレストランが建ち並び、いつもお客さんがいっぱいだった。若い兵譽には総てがきらびやかで華やぎ、道路はいつもきれいで、東洋と西洋が入り混じっており、行き交う人々は色とりどりの服を着、時には着物を着た女性がスーツ姿に山高帽子を被った男の隣を歩いていたりしていた。
 最も面白い眺めが銀座だった。銀座の小路では日夜人通りが絶えない。喫茶店やレストランはいつも人で賑わい、その壁には男の役者だけが演じる歌舞伎の演目のポスターがかかっていた。女役が必要な場合は、男の役者が女役を演じるのだ。
 銀座は芸者の街でもあった。多くの日本の有名な芸者は銀座から出ていた。善次郎と兵譽が東京に行ったときは、中村喜春という芸者が話題になっていた。その16歳の若い芸者は銀座の夜の世界を独占していた。優雅な振舞い、気品に満ちた姿、軽やかな踊り、そして目の眩むような美しさ。彼女を一目見ようとする客が列をなし、押すな押すなの騒ぎとなっていたのだった。
 また、善次郎と兵譽は、火を鎮める神が祭られている鎮火神社へもお参りした。東京の北東部に位置する30メートル平方の平地があり、そこには少しの人家と商店があった。
 徳川時代にはお城に火が飛び移るのを避けるために草を刈って、他の地域とは隔離されていたので、遠くから眺めると幽閉された街に見えた。この平原は、のちに秋葉原というエレトロニックス製品やテクノロジーの最先端の街に生まれ変わった。