自伝小説=月のかけら=筑紫 橘郎=(27)

 「実は近々、もう一か所、種鶏場を新設する事にしたが、岩田さんがどうしても年齢的に自分は無理だと引受けてくれない。そこで岩田さんが、ミランドーポリスで実績のある君に決めて、住宅を用意した。君が来てくれれば、岩田さんも仕事ができる。どうだい、岩田さんは期待している。知らない中じゃないだろう」
 これでは否応なし。太郎は目の前がパッと開け、運が転がり込んできた様な気がした。これなら幸子も喜ぶに違いないと確信して、「ふた月後にお世話になります」とつい口に出した。
 「よーし、これで決まり、乾杯だ。まぁ、こうなると俺たちは決めて居たんだ」と本音をもらした。果たして、ふた月後にマリリアの組合からトラックがアチバイアにある太郎の家の前に朝早く止まった。予告時間と十分間もたがわずにである。こうして、また奥地へ向かった。「何と、ムダンサ(移転)の好きな人」と幸子は笑い、世間も笑った。
 マリリア市ではミランドーポリス市と全く同じ様なカフェザル(コーヒー畑)の中に、一から鶏舎を建てて行った。全くミランドーポリスのコピーである。これで橋本氏の目論みは読めた。それだけに鶏舎の設計もそっくりそのまま。お蔭で仕事はスムーズに行って当たり前。時は一九六四年、マリリアで長男誕生、嬉しいゃら有り難いやら幸せの日々が続いた。
 そして一年半、鶏舎増建築の現場に悲鳴が上がった。幸子が震えながら飛んで来る。「あなた、あなた」と絶叫している。これはただ事ではない。太郎は妻の方へと駆けていった。何やら幸子が自分の家を指している。太郎が走り出した。仕事中の大工、人夫は屋根から下りて後に続いた。そこへ間髪をいれず、太郎が何かを抱いて走り戻って来た。車、車と叫んでいる。大工棟梁が太郎に近づくなり、車の方へ走り、幸子と種鶏場を車で出て行った。
 作業中の人達は顔を見合あわせ、首をひねっていた。道端にいた一人が戻って来た。「おい、みんな。千年さんの息子さんが転んでファッカ(包丁)が眼に刺さった。一大事だ。どんな事になるかな、大変だ」と仕事に手がつかない様子で、右往左往している。
 一時間もした頃、事務員が知らせに来た。目の方は解からんが、命は大事ないと第一報があり、取りあえず皆、仕事に戻って行った。
 千年太郎がその日五時ごろ(人夫)の前に戻って来ると、皆が駆け寄った。
 太郎は深々と頭を下げた。
 「皆さん、ご心配おかけしました。目は何とか潰れず済みそうですが、正常になるかどうかは、一週間くらいは解からんようです。事故です。家内が家の裏側の階段(二段しかない)に腰掛けて、娘にみかんをむいて居たら、息子が後ろから近づき、いきなり膝の上に置いていた包丁を取ったかと思うと、転んで外に倒れて、つかむひまもなく眼に刺さったのです。妻は『心臓が破裂し、止まるほどビックリしました。あなた御免なさい』と泣き続けております、皆さんにまでご心配お掛けして申し訳有りませんでした。人生、油断大敵です。人の世は、気の緩んだ隙を狙う様に事故が起こるものだと、つくづく思いしらされました」
 皆を前に、太郎はそう言った。
 その頃、ミランドーポリス市の幸子の実家から、弟二人がマリリアで働きたいと転がり込んできた。長男・星田健(たける)、二十二歳。その弟で三男の星田政敏、十八歳。その頃、マリリアで千年太郎が付き合いのあった人といえば、マリリア一番の目抜き通りルア、サンルイス通りで間口 十五間の時計店「レロジャリア・ルビー」の店主藤原さんであった。