日本移民108周年記念=囚人の署名 平リカルド著 (翻訳)栗原章子=(20)

平一家をブラジルに運んだモンテヴィデオ丸

平一家をブラジルに運んだモンテヴィデオ丸

 彼らに共通していたのは、後にしてきた故郷を思う気持ちだった。彼らはよく故郷の思い出を語った。
 兵譽はそんな彼らの思い出話を小さな枕を頭に当てて、新聞紙のように薄っぺらなマットに横たわり、聞いていた。床に寝ることなど彼にとって何でもないことであったが、日本の家屋のように材木の匂いがしないことに物足りなさを感じていた。
 「正座をして、苦痛を感じても茶の湯の会では取り乱すことなく、きちんと背筋を伸ばしていなさい」。これが兄さんを初めて茶の湯に連れて行ったときの善次郎の言葉だった。
 正座の姿勢は崩さなかったものの六歳の男の子には、ゆっくりした動作で小口に分けて嗜む茶の湯のセレモニーは興味を感じさせるものではなかった。
 彼の目は材木がふんだんに使用されていて森の雨の匂いがする家をきょろきょろと見ていた。床、壁、仕切りなど総てが萌黄色をしていた。会場は申し分がなかった。清潔な畳は雰囲気を柔らかなものにしていた。
 木材建築の日本の家屋は火事になりやすかったが、地震や台風には耐久性があり実用性と芸術性を兼ね備えている。仕切りに和紙が張られた障子や襖がみえる。紙と木材を使用して建てられている木造建築の家は自然災害に耐えられるようにできているのだ。
 兵譽は彼一人の遊び場となった庭を走り回った。塀のように並んだ竹薮、透き通った水の中を仲間とぶつからないように泳ぐ池の鯉、石や小鳥などは彼の幼心に焼きついた。

第6章  味方の爆撃を受けて

 翼賛会の仲間が捕らえられたのと同じ頃、神戸港からサントス港までの航海を頻繁に行っていたモンテヴィデオ丸は、最後の航海についていた。平一家をブラジルに送り届けた船は、太平洋戦争が始まると日本海軍に所属し、日本軍が攻略した土地の捕虜を乗せて、太平洋を航海するようになった。
 ハワイにあるアメリカ軍のパールハーバー基地を一九四一年十二月七日(ブラジル時間)に空爆して以来、日本軍はオーストラリアに属していた戦略拠点のニューギニアのラバウルを占領していた。一九四二年一月二十三日には多くの兵士が同地の海岸に上陸した。彼らは一〇万人以上が入れる壕を掘っていった。ラバウルが陥落した何週間か後に、日本軍は中国の島ハイナン島に敵国の捕虜を運搬させていたのだ。
 一九四二年六月二十二日にモンテヴィデオ丸は、敵国捕虜八四五名の兵士と二〇八名のオーストラリア市民を乗せるためにラバウルに入港した。鉄のかたまりのような巨船には、その他八十八名の乗組員がいた。
 中国の収容所への輸送は順調に運んでいたが、アメリカ海軍の潜水艦スタージョンに発見されてしまう。スタージョン艦がフィリピン沖をパトロール中に敵船を発見したのだ。同船が味方の捕虜を輸送中ともしらず魚雷を撃ち、四発すべてが敵船に命中した。
 モンテヴィデオ丸はたった一人の生存者を残して、七月一日の夜明け前に沈んでしまった。一人生き残った乗組員ヨシアキ・ヤマジは死を前にした敵兵のオーストラリア人の勇気を称えて語っている。
 ヤマジ氏によると、捕虜は沈みゆく船の中で国歌を歌いつづけたそうだ。モンテヴィデオ丸の悲劇は後に「共食い爆撃」と呼ばれ、オーストラリアの海軍史上、最も汚点を残したものとされた。ラバウルは日本軍の基地として四十五年に戦争が終わるまで活用されたものである。