日本移民108周年記念=囚人の署名 平リカルド著 (翻訳)栗原章子=(25)

 (フォーリャ紙記事のトルーマン大統領のコメントの続き)原子力を公開することは人類の新しい時代への理解へと繋がる。原子力は、将来において、石炭、石油や水力発電などを補強するものとなるであろうが、現段階では商品化まではこぎつけていない。その段階に達するまではまだ長い時間を必要としている。
 我が国の科学者、政府機関などの規律には、科学的発見を秘密裏にしてしまう決まりはない。よって、普通であれば、原子力に関する総てを発表していたであろう。
 しかし、現況では、製造法の新規分析を行い、総ての製造過程や軍事への適応に関して発表する事によって、世界が破滅してしまう恐れがあり、そういった危険に地球がさらされることを避けたい。
 アメリカの国会が国での原子力の製造、並びに使用を管理すべく適切な委員会をつくる事を提案したい。原子力が世界平和を維持するために多大な影響力を持つものなるためにもこれからも国会にその適用について提案し続けたい。(フォーリャ紙記事の引用おわり)
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 約束したにもかかわらず、看守のオタシリオは囚人たちに新聞を渡さず、日本人を遠ざけるようになった。日本での原爆投下のニュースはその瞬時の破壊力と同じくらいの速さで伝わった。日下部雄悟は仲間と戦況について、話し合おうとしたが、誰も関心を持とうとしなかった。
 日本人はブラジル政府がアメリカに好意的な広報をしていたことを知っていたし、「敗戦」という言葉は彼らの辞書にはなかったのである。
 広島のひどい状況にも関わらず、日本にも、敗戦を信じようとしない頑固者がいた。パイロットのポール・チベットスによってエノラ・ゲイと名付けられたB―29戦闘機が原爆投下後、テニアンのアメリカ基地に引き返している頃、日本の科学者の仁科芳雄と田島英三は、陸軍大臣の阿南惟幾に状況の重大性を訴えた。原子力の開発に携わっていた二人の科学者は、広島との突然の連絡の断絶が原爆のせいだということを感じていた。
 しかし、阿南大臣はそれらの状況が信じられなかったか、信じたくなかったのであろう。惨状に関する生存者の報告を聞いても、2万2千キロトンの爆弾が日本の地に投下されたという米国大統領、ハリー・トルーマンの言葉を聞いても信じようとしなかったのである。彼は傲慢な頑固者の態度を崩すことはなかった。
 阿南大臣は何事もなかったかのように戦略を推し進めさせ、平和を交渉しようとする者を軍事裁判にかけることを命令した。彼は、3日後に原子爆弾が再び長崎に投下されることによって、この精神異常状態から目覚めた。
 その段階においては、首相の東条英機が既に辞任していた。阿南は天皇陛下が日本の降伏を選んだ時点で皆から見放された。他に選ぶ道は閉ざされていた。1945年8月14日にジョルナル・ド・ブラジル紙には次のような大見出しが掲載された。
『戦争における最もひどい惨敗』=「日本の降伏は米国の大統領、ハリー・S・トルーマンが東京からの公的な返信を受け取った後に世界に発表された。省庁に新聞記者を招集し、トルーマンは「今日の夕刻、日本政府より8月11日に送られたメッセージの返信を受け取った。この返信を日本の無条件降伏を明記するポツダム宣言の前面的な受け入れと解釈するものである。返信には疑いを挟む余地はない」
 日本で、天皇がラジオを通じて国民に直接呼びかけたのは歴史上初めてのことであった。
 その発言で、昭和天皇は世界の状況が敵国と交渉を余儀なくさせ、降伏という処置をとらざるを得なかった事を報告した。
 続いて、アメリカとイギリスに宣戦布告をしたのは東洋アジアの制定を願っての事であると発表した。天皇のお言葉によると、日本が他の国家に内政干渉をするような目論見は全くなく、また、国土拡大の野心もなかったことを表明した。
 同日の1945年8月14日に、阿南大臣は自殺した。そして、1945年9月2日に、東京湾で、米国のUSSミズーリ艦上において、日本は公式に降伏することを署名し、戦争は終りを告げた。