自伝小説=月のかけら=筑紫 橘郎=(34)

 それでも早めにエコノミークラスの通路側に席を取り、寝た振りを始めた。千年君、どう見ても見られた者じゃないが、飛行機は定刻の一時半、滑るように走り出した。こうなると千年君、安心したのか、少し眠気を感じた。
 さあその時、「千年さん」と呼ぶ声を聞いた。なーに、そんな事ないよ。誰にも日本に行くなんて知ってるはずはない。気のせいか、空耳かと知らんふり仕ていた。すると、今度はハッキリ、「千年さん」と聞えた。
 近い後ろからである。ひょいと、振り返った千年君、たまげたのなんのって、飛び上がらんばかりだ。向こうから手招きしているのは、数年前に知り合った公務員の日系女性。千年には縁のない人であるが、つい最近、人伝てに連絡があった。その時、最近の貴方(千年太郎)はかなりお困りのようねと聞かれたが、何にも話さず、挨拶だけで電話を切った。彼女に話しても仕方ないと考えていた。
 しかし、機内は満杯で隙間はない。仕方ないこちらが立って後ろの方に行った。すると彼女も立って彼のところに着いてきた。
「須磨子さん、一体どうしたの」
「あなたひどい人ね、知らない振りして、一人で日本に逃げる積りなの。私はどんなに逃げても、絶対離れはしないわ。一人にはしないと、あんなに言ったじゃないの。でもいいわ、もうー、離れませんからね。もう私、決めたの」
「おいおい、僕は遊びじゃないんだ」
「そうでしょうね。もう、帰らない覚悟でしょう」
「だから、私がそばにいてあげる。嫁にしてくれとは言わないわ。そばに着いててあげる」
「ああ、解かった。後でゆっくり話そう」
 いやあー、驚いた。まわりの者が、何の内輪揉めかと、興味深々見ている。だが、太郎の気兼ねなんか問題じゃない、と須磨子さん。
「こりゃあー、偉い事になった」と千年君。
 しかし、じたばたしても飛行機は雲の上。観念して、「また後で」と言ったら、すんなり頷き、自分の席に戻った。
 千年君、「オヤッ、隣の人がいない。席を間違えたか」とキョロキョしていたら、すぅーと人が座った。気付いて太郎は腰が抜けたように、ストンと空いている席に尻もち就いた。
 太郎は二度びっくり。自分の隣に須磨子さんが当たり前のような顔で座っていた。ようやく太郎君は冷静に戻った。
 そう言う事か。須磨子さんは機内に入るまでは誰にも知られないように、お膳立てしていたのだ。これには千年の友人、ダルマ屋の岡崎幸夫さんが千年から聞いて知っていたのだ。岡崎さんは須磨子さんの近所に住んでいて、全部筒抜けになっていたとは、知らぬが仏の千年君でした。
 千年と須磨子の染愛(なりそめ)は、千年の商売がギクシャクし始めた二、三年前からだった。千年は受け取っていたシェッキ・セン・フンド(不渡り小切手)に随分悩まされ、かなり多額の借金を抱えていた。
 その頃、大資本の外資スーパーも支払いが滞り勝ちになり、農家の支払いにも事欠く窮地に。金融機関は超インフレで、金融引き締めに国内全体が窮地に陥り、四苦八苦。勢い、不渡り手形の乱発で、千年商会も破綻寸前、藁(わら)をも掴む虫の息だった。
 その様な気持ちのとき、「サンパウロの目抜き大通りアべニーダ・パウリスタのとある銀行の本店なら、不渡り手形数十枚を現金に出来る」と聞き、藁をも掴む思いで駆け込んだ。