ブラジル水泳界の英雄 岡本哲夫=日伯交流から生まれた奇跡=(1)=64年前、競泳で初メダル

 いよいよリオ五輪が本日開会式を迎えるにあたり、ブラジル水泳界および日系社会共に初の五輪メダルをもたらした二世・岡本哲夫(1932年生まれ~2007年没)の歴史を振り返ってみたい。彼が表彰台の3位に登ったのは、64年前の8月3日。1952年のヘルシンキ五輪(フィンランド)の1500メートル自由形競泳だ。しかも、その時の表彰台には日本人の血を引く三人が占めた。当時、邦字紙では五輪における日本勢の健闘が記事の中心だった。ところが、勝ち負け抗争の余韻が強く残っていて日本移民への悪印象が強かったにも関わらず、ブラジルの新聞は「ジャポネース」の健闘を大々的に報じ、心から祝福した。

 ヘルシンキ五輪閉会式の当日、1952年8月3日午後、1500m自由形競泳の表彰台には、1位にハワイ出身の日系アメリカ人の紺野フォード(18分30秒3)、2位に日本の橋爪四郎(18分41秒4)、3位に日系ブラジル人の岡本哲夫(18分51秒3)が並んだ。岡本は身長178センチ、体重69キロ、鍛え上げられた筋肉質な体には、サムライの精神が宿っていた。
 本紙04年8月14日付によれば、1500mの最後のターンの時、岡本は苦しくて卒倒しそうだったが、「お前はサムライの子孫だ。大和魂を見せてから死ね!」という父親の声が聞こえ、「もう死んでもいい」と無我夢中で泳いたという。時代を感じさせるコメントだ。
 でも、この気合、踏ん張りが無ければ、彼が表彰台に立つことはなかった。なぜなら4位の米国ジェームス・マックレーンとの差は、わずかコンマ2秒(18分51秒5)だったからだ。
 岡本は3位入賞を知らされた時、嬉しさのあまり頭が真っ白になり、知らないうちに涙を流していたという。
 岡本は予選で19分5秒6(ブラジル新、南米新)を記録して決勝に進んだ。これだけでも十分に誇れるタイムだった。ところが決勝ではさらに15秒近くタイムを縮め、なんと18分51秒3(南米新)を記録した。これはその後10年間も南米で破られなかった大記録だった。
 1位の紺野との差は約20秒、2位の橋爪とは10秒。前年51年3月のパンアメリカン大会の同種目で、岡本の記録は19秒23秒3だった。それから1年半後の五輪までに、実に30秒もタイムを縮めていた。
 岡本は凱旋直後の52年8月にウルチマ・オーラ紙の取材に答え、「あと(練習期間が)2カ月ヘルシンキまであったら、1位を狙えた」との勇ましいコメントを残した。それほど20歳の肉体は驚くほどの発達を遂げていた時期だった。
 でもそれは、持って生まれた才能だけではなく、日伯交流が生んだ奇跡的な特訓の成果だった。(つづく、深沢正雪記者)