ブラジル水泳界の英雄 岡本哲夫=日伯交流から生まれた奇跡=(3)=64年前、競泳で初メダル=日本移民受難の時代に曙光

『パウリスタ新聞に見るコロニア30年の歩み』(1977年)16頁にある訪伯水泳団の記事(中列左から橋爪、古橋、浜口)

『パウリスタ新聞に見るコロニア30年の歩み』(1977年)16頁にある訪伯水泳団の記事(中列左から橋爪、古橋、浜口)

 1942年1月、リオで行われた米国主導の汎米外相会議で、アルゼンチンをのぞく南米10カ国が対枢軸国経済断交を決議、ブラジル政府も同29日に枢軸国と国交断絶を宣言した。
 サンパウロ州保安局は「敵性国民」に対する取締令として、「自国語で書かれたものの頒布禁止」「公衆の場での自国語の使用禁止」「保安局発給の通行許可証なしの移動禁止」「保安局に予告なしの転居禁止」などの制限を日本移民に課した。
 そんな時代ゆえ、「日本人プール」は竣工こそしたものの書類に不備があり、開場早々に使用禁止を言い渡された。戸崎新蔵と山崎用一は急きょ、サンパウロ市に出向いて州体育局長にお伺いを立てた。
 すると《親切に手続きを教えられ、戦争中も一時閉鎖を命じられたが、これもパジリア氏からのやつてよろしいという許可証でパッサ(註=通過)した。「パジリア局長が世界の岡本哲夫を作った」ということにもなる》(パウリスタ新聞1952年9月18日付)。「敵性国民」だが例外的な扱いで、岡本は水泳を続け、地元のヤーラ・クラブにも所属して磨きをかけることができた。
 終戦直後、1946年3月から「勝ち負け抗争」が起き、日系社会は未曽有の混乱に陥った。
 41年に日本語新聞がなくなってから、短波放送「東京ラジオ」の大本営発表だけを頼りにしていた日本移民にとって、ブラジル一般紙の報道は「米国の謀略」だと戦時中に頭から刷り込まれていた。
 それゆえ終戦直後、日本の無条件降伏を信じたくない「勝ち組」と、早々に敗戦を認めた「負け組」に分かれ、日本人同志が20人以上も殺し合う危機に直面した。46年4月から7月をピークに、翌47年初めまで殺傷沙汰が続いた。
 46年末から邦字紙が発行されるようになり、事態は収拾に向かったが、この後も10年近く分裂は続いた。そんな抗争の余韻が色濃く残る1948年、まだ16歳だった哲夫はウルグアイで開かれた南米大会に出場した。
 「初陣の水泳会や首府の夜」(雪村)――父専太郎は、そんな句を詠んで喜んだ。
 1950年、哲夫の人生を変える出来事が起きた。戦後日伯交流の先駆けとなった水泳選手団一行が3月4日に来伯したのだ。遊佐正憲監督、村山修一(主将)、「フジマヤのトビ魚」こと古橋広之進、橋爪四郎、浜口喜博ら一行だ。
 戦前の30年代の日本で競泳は「お家芸」と呼ばれ、世界一をほしいままにした。例えば32年ロスの男子全6種目中5種目で金メダルを獲得した。その時代の中心選手の一人が、一行の監督・遊佐正憲(五輪金2、銀1)だった。
 すでにブラジル代表になっていた岡本は1カ月余り、この日本選手団と共にサンパウロ市、マリリア市、パラナ州ロンドリーナ市など日系人が多く住んでいる都市で開かれた親善大会に参加し、世界最速の泳ぎに大いに感激した。(つづく、深沢正雪記者)