『百年の水流』開発前線編 第二部=南パラナ寸描=外山 脩(おさむ)=(2)

 アントニーナに未だ活気があった1907年、―日本人が訪れた。名は内田定槌(さだつち)。
 リオ州ペトロポリス駐在の日本公使であった。
 ポ語版のパラナ州日系社会史『AYUMI(歩み)』によれば、内田は付近を歩き、湿地帯が多いのを視て「稲作に適した土地だ」と言ったという。
 それを聞いて記憶していた少年がいた。名はエイトール・ソアーレス・ゴメス。父親はパラナ州の有力な政治家であった。
 その七光りもあったのであろうが、1916年、19歳という若さでアントニーナの市長になった。

長谷川武

 エイトール・ソアーレスは、市長就任早々、農業開発のため、欧州から移民を入れようとした。
 が、第一次世界大戦の最中で、どこの国も移民送出を中止していた。その時、彼が思い出したのが、自分が少年時代に、ここを訪れた内田公使の一言である。
 彼はサンパウロに行き、日本総領事館を訪れた。
 同館はパラナ州も管轄していた。応対したのが総領事の松村貞雄である。
 これに内田公使の思い出や農業開発計画を語り「日本移民を入れたい」と協力を求めた。
 松村は承諾、その話を市内にあった東洋移民会社(支社、本社=日本)に回した。が、日本からの移民も同時期、激減していた。そこで同社は、日本人街で職探しをして居た邦人に、声をかけた。
 数人が応じた。
 彼らと共に長谷川武という同社の職員が、指導者兼通訳として同行、入植することになった。
 松村が長谷川に慫慂したという。
 松村は総領事といっても、威張らず移民……特に若者と気さくに付き合い、人望があった。それは大いに結構なのだが、軽率なこともしていた。
 「今日の如き出稼ぎ移民では、外国移民に伍して発展を為すことは至難事」と慨嘆、「日本移民は雇用農から脱し独立農たるべし、植民地を建設すべし……」と頻りに扇動していたのである。
 といって、松村に植民地建設の経験があったわけではなく、資金の世話をしたわけでもない。
 この扇動に乗って、前年、平野運平という青年が、ノロエステ線(現カフェランジア)で、植民地造りに着手、約300人の邦人を入植させた。
 が、これが風土病による大量の犠牲者発生──という悲劇を招く。(この1916年、すでに罹病者が出始めていた)
 長谷川は新潟県人で、1886(明19)年の生れであった。東京外語を出て1913(大2)年、渡伯した。リベイロン・プレットのファゼンダで通訳をした後、サンパウロに転じ、東洋移民に勤めていた。30歳だった。
 アントニーナでは、町から10数㌔北、カカトゥ川に接する土地で、米作りを始めた。が、大変なことが起きてしまった。
 一資料はこう記している。
 「湿地帯での米作り、それは、マレッタに罹りに行ったようなものであった。間もなく全員が高熱にうめきだした」
 その呻き出した一人、堀部栄吉が、半世紀以上も後、この資料の編集時、クリチーバに健在であった。こう語っている。
 「収穫期になっても、刈る者がいない。朝、カフェーを沸かす者さえ居なかった。薬を飲んで熱がさがると、畑に出たが、三時間と体がもたない。交替で稲刈りをしたが、米代はみな薬代になってしまった。それで末永、蓮沼、遠藤夫婦はサンパウロへ帰ってしまった。俺も行きたかったが、旅費がなくいけなかった。コジキ同様の生活だった。俺は死ぬのじゃネエかと思ったよ。あの頃のコトは、思い出すだけでも、胸が苦しくなる」(一部、字句修正)
 別の資料には「付近に住むインヂオが、見かねて食糧を差し入れてくれた」という逸話が記されている。
 なお、このアントニーナへの最初の入植者数は、資料類では7人となっている。が、内一人は数年後の入植であり、正しくは6人であろう。