『百年の水流』開発前線編 第二部=南パラナ寸描=外山 脩(おさむ)=(10)

 今日、クリチーバ市の人口は約200万である。日系は2~3万、と地元の人々は推定している。
 しかし日系は終戦までは、ごく少なかった。前出の東野光信さんは「100家族は居なかったでしょう」と言う。
 が、戦後増えた。これは次の様な理由による。
 クリチーバは州都で、経済的にも大きく発展、大学などの教育機関、病院、その他の施設が多数つくられた。
 一方、パラナ州の邦人は、戦後、カフェーや綿、セレアイス、バタタ、果物などの営農で、経済的にゆとりができ、子供をクリチーバの上級学校に進ませる様になった。その子供が卒業後、ここで就職した。それを頼って、身寄りが転住してきた。
 ほかにも多数の人が、仕事その他の都合で流入した。

放浪者たち

 戦前は全く違っていた。
 筆者は、地元の一老人に「昔は、どの様ないきさつで、ここに日本人が来たのでしょうか?」と訊ねたことがある。その
老人は笑いを含んだ声音で、こう答えた。
 「それは、つまり、放浪してきたのですナ。他所から逃げてきた様な人が多かった。だから、新しい人が来ると、また逃げてきた、と‥‥」
 これを聞いた時、筆者はフイに30年以上前、始めてクリチーバを訪れた時のことを思い出した。
 地元の文協を訪れ、応対してくれた職員に同地の日系社会について質問していると、奥に居た女性が立ち上がり、こう教えてくれた。
 「クリチーバに最初に来た人は、サンパウロから、歩いてきたそうですヨ」
 まさに放浪である。サンパウロ市からは約400㌔はある。
 今回改めて調べてみると、AYUMIに、この歩いてきた人に関する記事が出ていた。
 それによると。──1909年、サンパウロ州の東南部、パラナとの州境近く、ファシナ──イタラレー間の鉄道建設工事が終わった。(ファシナ=現在のイタペーバ)そこで工夫をしていた28人の日本人がいた。
 前年6月、日本から来た笠戸丸移民であった。
 彼らの多くは新しい仕事を求めて、北方のノロエステ線の建設現場に向かった。内二人は南下してクリチーバを目指した。
 つまり先に記した「サンパウロから歩いて来た」は「サンパウロ州から歩いて来た」の意味であった。それでも200㌔近くは、歩いたろう。
 二人の名前は松岡甚太郎、坂本栄八で、いずれも熊本県人であった。
 よく知られている様に、笠戸丸移民は、サンパウロ州内6カ所のファゼンダに配耕された。が、何処でも騒動を起こし、追放された。あるいは逃げ出した。半年後には残存者は半分、一年後には4分の1に減っていた。
 原因は、この移民を送り込んだ皇国殖民会社の社長水野龍の粗放さに在った。
 ファゼンダを出た移民は離散、放浪した。鉄道の建設現場で工夫になる者が多かった。松岡、坂本も、そうであった。
 二人は、クリチーバに来た時、なぜ歩いたか?
 普通の旅人は馬車か馬を利用していた。その経費を節約したのかもしれない。二人は農家の出で、日露戦争の折、出征したという。長途の行軍も経験した筈である。苦にはならなかったのであろう。
 当時、クリチーバは、すでにパラナ州の州都であった。人口は4万ほどで、現在の小都市ていどであるが、活気があった。
 二人はここで雑役をして稼ぎ、アルゼンチンへ旅立った。この時も歩いて行ったのだろうか?
 先に記した様に、クリチーバから東へ100㌔行くと、パラナグア湾があり、そこまでは鉄道が通じていた。港には、沿岸航路の客船が、出入りしていた。常識的には、そのコースを取ったであろう。
 では何故二人は、アルゼンチンに向かったのか?
 実は、笠戸丸移民は781人中、200人以上が、アルゼンチンへ移動している。大変な比率である。これだけでも、水野龍のやったこの事業が失敗であった証しになる。
 彼らはブラジルに嫌気がさし、新天地を求めたのだ。無論、水野に対する当て付けもあったろう。