『百年の水流』開発前線編 第二部=南パラナ寸描=外山 脩(おさむ)=(11)

婚約者から逃げて来た男

 1909年には、もう一人の日本人がクリチーバ入りした。AYUMIによると、シンキチ・アリカワという名で、「婚約者から逃げてきた」と言っていたという。
 笠戸丸の2年前、1906年、隈部三郎一家と日本から来た7人の青年の一人、有川新吉だった。
 隈部は、改めて紹介する必要もあるまいが、元は鹿児島県の判事であった。職を辞して弁護士をしていた時、ブラジル渡航を決意、妻子6人を伴い敢行した。その時、一家の意気に刺激された右の青年たちが、この計画に加わった。
 1907年、隈部一家、有川ら青年3人が、リオ州マカエに入植した。
 皇国殖民会社の社長水野龍が、州政府と交渉、植民地を建設する事にした土地だった。水野が隈部たちを入植させたのである。しかし開拓に適した土地ではなかった。
 青年たちは次々逃げ出し、残された隈部一家は窮迫した。
 つまり彼らも、水野の粗放さに踊らされた口であった。
 鈴木南樹著『埋もれ行く拓人の足跡』によると、この入植の折、隈部の長女と有川が婚約している。
 有川は、入植地と婚約者の両方から逃げ出したことになる。その後、鉄道建設工事に日本移民を斡旋していたというから、前出の松岡、坂本と関わりがあってクリチーバに来た‥‥のかもしれない。
 翌1910年5月、サンパウロ(市)から二人の日本人が来た。ところが、有川は顔を合わせぬ
様にしていた。二人を通じて、自分がここに居ることが婚約者側に伝わると「追っ手がかかる」と恐れていたという。
 これは、事実だったかどうか‥‥。言葉に、別の意味を込めたケレンが臭う。
 その後の有川は、日本移民史から消えている。
 パイオニアの割には、大した男ではなかったのだろう。隈部の長女は別の日本人と結婚した。相手は、日本移民史に関する資料類には、名前や写真が、よく出ている。相当の人物であったようだ。
 有川が逃げ出してくれ、長女は却って良かったであろう。
 話は変わるが、そのサンパウロから来た二人というのは、上塚周平と後藤武雄であった。上塚は皇国殖民会社の社員で、2年前、社長の水野と笠戸丸移民を率いてきた。
 後藤は4年前、サンパウロ市内の中心街に店を出した藤崎商会(仙台)の店員であった。
 上塚は、笠戸丸移民の配耕地で起きた騒動の後始末で、惨憺たる思いをした後──途中経過は略すが──独自の植民地を造ろうと、土地探しをしていた。後藤は、多分、その協力をしていたのであろう。
 二人は、クリチーバで州統領と会った。その時、先方から土地払下げの話が出た。が、結局、上塚は必要経費を調達できなかった。(州統領=後の知事に相当)
 1911年、一人の行商人がやってきた。村崎豊重といって、鞄に小間物を詰めていた。これも笠戸丸移民であった。
 その2、3年後、安田良一という青年が、同じく行商に現れた。彼も有川新吉と同じく、隈部一家とマカエ入りした一人だった。この頃は、遠く北のアラゴアス州で商売をしていた。が、上手く行かず、売れ残りの商品を売りながら、クリチーバまで旅をしてきた。
 有川と連絡があってのことであったかどうか‥‥は判らない。
 右の上塚以下も──後藤を除き──水野龍の粗放さの被害者だった。
 1915年、千葉県人某がリオからきて、市内に竹細工の店を開いた。東京外語出だったという。
 日本人の従業員2人が働いていた。が、店は不調で1年ほどで閉めた。
 同年、脱走船員の福岡県人某が流れて来た。英国航路の船で働きながら航海、ブラジルの何処かに寄港した時、逃げ出したという。ミナスのウベラーバで米作りをして失敗、ほかにも色々あったが、結局クリチーバへ‥‥ということであったようだ。市内の風袋会社で働き、ブラジル人の女中と一緒になった。
 1922年、またもサンパウロ州から歩いて来た男が二人いた。ソロカバナ線ボイトゥーバから線路沿いに旅をしてきた。
 直線距離でも300㌔はある。夜は人家や学校、警察に泊めて貰い、警察では留置場に寝た。野宿をしたことも‥‥。一カ月目に着いた。
 1923年、クリチーバには、日本人が7人居て野菜づくりをしていた。殆どが独身青年であった。