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第46回県連故郷巡り=悠久と躍動の北西パラナ=(15)=レジストロから17人も参加

大矢良子さんと夫のジョルジさん

大矢良子さんと夫のジョルジさん

 2日の昼食時間に、今回レジストロから17人もの参加者があったうちの二夫婦に話を聞いた。セッチ・バーラスに住む大矢ジョルジさん(82、ペドロ・デ・トレド生まれの二世)、良子さん(78、第3アリアンサ生まれの二世)だ。
 ジョルジさんは南西海岸部のペドロ・デ・トレドの奥にある「南聖植民地」の出身で、「日本人は2、3家族のみ。あとはドイツ人10家族だった。日本人はまず野菜を植えるが、ドイツ人は先に花を植えていた」と興味深い観察をする。
 セッチ・バーラスの出来事を聞くうちに、軍政時代に反政府活動家ラマルカが、日本人から「レジストロ富士」と呼ばれるヴォツポッカ山に立てこもった事件の体験談が出てきた。
 カルロス・ラマルカといえば元陸軍大尉、射撃の名手として有名だが、軍政に反発して革命人民戦線(VPR)を組織してゲリラ活動をした人物だ。
 ジョルジさんは「あの山はあの辺で一番高い、360度見渡せる場所でしょ。そこに射撃の名手が陣取ったから、どこから撃たれるかわからないとみんな、戦々恐々として町も歩けない感じで、皆怖がっていました。山の下には軍警やら陸軍やらが取り囲んで、軍用機が出動して山頂に爆弾を投下するなど、大変な騒ぎだった」と思い出す。
 ここは海外興業株式会社が作った移住地が市に発展した一つで、普段は閑静なセッチ・バーラスだけに、その時は凄い緊張感を町中にもたらしただろう。ジョルジさんは「結局ラマルカは誰にも気づかれないうちに抜け出して、バイーアの方まで逃げ、そこで殺されたと聞きました」という。
 良子さんに今回の旅の感想を聞くと「グアイーラの歴史の話がよかった。1500年頃からというのはスゴい。あそこの日系団体の人も良くしてくれた」としみじみ。
 同17人のうちの北原厚志さん(こうし、76、熊本県)、妻の千代さん(72、宮崎県)にも話を聞くと、カジャチ市でバナナを230アルケールもやっている大農家だった。
 2人とも1958年に呼び寄せの家族移民で渡伯し、1967年に結婚。当時はエンブーグアスーにいた。1971年に「冬作」をするために、同地やイタペセリッカの日系農家11家族と共に温暖なカジャチに移った。

北原厚志さんと妻の千代さん

北原厚志さんと妻の千代さん

 サンパウロ市近郊でピメントン生産は冷え始まる4、5月にパタリとなくなる。でも温暖なカジャチでは5月に出荷できる。これが「冬作」だ。北原厚志さんは「1年に3万5千箱出荷してコチア組合から3年連続で表彰された。73年、74年が優良品出荷賞、75年が多量出荷賞。嬉しかったね」と思い出す。
 その後、ビニールハウスが一般化して「冬作」がサンパウロ市近郊でもできるようになり、82年にバナナに切り替えた。最初はナニッカ種だったが風に倒されるなどの被害が出て、プラッタ種に切り替えたから良くなったという。「ちょっとお金ができると土地を買い足して、全部自分の土地。百姓人生を全うした。子供二人が後を継いでくれ、孫も『バナナを作る』と言ってくれた。今じゃ、子供に全部まかせたが、今でも毎日畑を見に行くよ」と破顔一笑した。(つづく、深沢正雪記者)

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