道のない道=村上尚子=(53)

 何か向こうの方から、夢のようなものが手招きしている。それはやはり商売だ。私は商売が好きだ。そしてその面白いところは、形の無いものから発して、思い通りの姿にして行くまでの過程が楽しいのだ。次は食料品店、次はもっと大きく……そんな想いを抱きながら、働いていた時である。父が、何かに追い詰められるようにして、店へやって来て、私に命令を下した。
「今すぐ、オレたち(父と母)の住むアパート買え!」という。
 なぜ父は、私が今からという時に現れるのか。
 (あぁ……夢が……)父母の家を出てから、随分と年月は過ぎて行った。それまで弟たちは、父のために大変な苦労をしてきたらしい。何の仕事をしても、これからという時、父が一騒動起こして、駄目にしてきたというのだ。
 なまじ父の恩給が入ってくるのが禍した。つい金のやりくりに苦しくなると、父に金を出させた。手を出すと、父は権力を振り回す。その繰り返しで、今度ばかりは優しい弟も、父へ背を向けてしまったようだ。
 私は仕方なく、コンセリェイロ・フルタード通りに、アパートを買って、父母を住まわせた。私の子供たちも、今度こそ引取れる状態にあったが、母が淋しがって、子供は今まで通り一緒に住まわせてと云われた。子供とは、頻繁に行き来できるようになった。
 ある日、あのアパート買い入れの件で忙しかった私は、一日だけ店を閉めた。表の入口に貼り紙をした。
『本日は誠に勝手ながら、急用にて店を閉めさせて頂きます』と。
 すると、その貼り紙の余白へ、『ふざけるな!』と書いてある。
 駄々をこねている、私のお客たち……

 父のアパートの件が、一段落した頃、あのA子が店にやって来た。私は洋介との一部始終を彼女に話した。 
 すると、A子はだまって聞いていた。そして、
「私も店を持ちたい。持ちたくて仕方ないけど、資金がなくて……」
 殆ど諦めの様子で、呟いている。私はふと思った。どうせ自分の夢は破れた。今の資金では中途半端である。私の有り金を全部、彼女へ貸してやった。期限は無し、領収書もなし、(領収書がなかったのは、これを書いていて思い出したくらい大ざっぱな貸し方をした)。
 A子は、数日後、私に言った。
「周りの人に言われたわよ。男でもこれだけのことは出来ないと」
 間もなく、バイーア州で、恋人と店を開いたそうだ。食堂らしい。
『これで、心の借りは返した』。
 もう私には「円苔」だけとなった。男と言えば、どうやら私は気づかないうちに男っぽくなってきている。何しろ花園時代から今日まで、男だらけの世界で生きてきた……たまに客の口から、
「○○○の店のA子、色気あるぞう!」
 と、嬉しげに客たちで語っているのを聞く。いくら私が男っぽくても気になる。一口に『色気』といっても、分かるような分からないような…… 男たちに聞いてみることにした。
「色気ってなに?」
 するとTさんが、
「あのねえ、ママさん、たとえば首すじに濡れた髪が貼りついている……あれが色気なんだ」
 地から虫が這い上がってくるような声で、聞かせてくれた。Nさんは、自信に満ちた声で、
「カーマ(ベッド)だよ、カーマ!」
 うーん、あんな大きなものは、この「円苔」には持ち込めない。