道のない道=村上尚子=(62)

 そのうち生活は、いよいよ貧しくなり、水代も惜しくなってきた。私はあの食堂の資金を貸したA子を思い出した。今はバイア州で成功しているという噂を聞いている。「借金を返してほしい」と伝えてみた。彼女なら、すぐに返済してくれるはずだと、軽く考えていた。ところが、
「そんな人だとは、知らなかった!」
 と、大層恨んでいるとのこと。私には訳がわからない。今の私の状況を詳しく説明する気力がない。
 数日後、中肉中背の、温和な顔をした男がやって来た。この人が例のA子の恋人、大学教授だとすぐに分かった。彼は言った。
「もう少し、金は待って欲しい、とA子が言っています」
 私の視線を避けるようにして、頭を下げた。このうちひしがれたような彼を見ると、今は向こうも金の都合がつかないらしいことが分かった。そして、高価そうな海産物の手土産を、そっと置いて帰って行った。数ヵ月後、A子は金を返してくれた。しかし顔も見せない、「ありがとう」もなかった……
 
 長女のひろ子は、二年前に結婚していた。
 私には唯一、小さなアパートが残っている。これに琴子を住まわせて、アルバイトをしながら夜学へ通うように言って聞かせた。私は日本へ行って仕事をすることを決意した。その前にすることがある。それは、新聞社へ問い詰めに行くことである。この日は丁度、編集長らしき人がいた。社へ来た理由を述べると、その男は言った。
「今まで色々な人のことを書いてきたが、社まで乗り込んで来たのは、あんたが初めてだ」
 と言って、楽しそうに笑っている。誠意のカケラもない。しかし、もう一ヵ所だけ行ってみる所がある。
 文協内にいる弁護士を訪ねたのだ。 
「新聞社を訴える」という話を聴いた彼は、短い首を上げ、
「それで、いくら欲しいんだ!」と、あごをしゃくった。
「いくらでも取れるだけ! そして勝ったらそれは全部貴方に差し上げます」
 と静かに言った。小バカにしていた目が、一瞬まともになり、少し考えていたが、
「私は日系の団体を守るために仕事をしている。なので、その話は受けられない」
 断られてしまった。この時ほど、私はたった一人なのだと感じたことはない。崩れて行く時はあっという間で、私はもう終わってしまったのだ。

     日   本   へ

 私が日本を出て来たときは、十九歳であった。友だちも知り合いもいない遠いブラジルなど、来たくはなかった。あれから二十五年もの歳月は流れて、四十四歳にもなってしまった。忘れようにも忘れられないはずの日本が、さあ帰ることになってみると、知り合いもない、親戚付き合いもない…… 第二の外国になってしまっている。
 ほんの一時、向こうで落ち着くまでの間、友行を頼るより仕方がない。彼へ、わけを説明した手紙を出してみると、嫌味のひとつも言わずに、協力してくれるという。
 身辺の整理が済んで、私はリベルダーデから約三十キロ先の、タボン・ダ・セーラという処に住んでいる父母の許へ行った。今までのいきさつと、日本へ仕事に行くことを報告した。