JICA=日系社会ボランティア30周年=リレーエッセイでたどる絆=第11回=絶え間なく続くブラジルとの縁

サルバドール時代の写真(左が五味さん)

サルバドール時代の写真(左が五味さん)

 1996年にボランティアとして来伯し昨年で節目の20年。
 この20年間、私とブラジルの関係は絶え間なく続いています。趣味、友人、仕事。人生の一部は何らかの形でブラジルに繋がってきました。
 そして一昨年、16年ぶりに戻ってきました。今はこの国で仕事をして、24時間ブラジル漬けです。
 ボランティア時代の配属先は、バイア州サルバドール。京都みたいな古都と勝手にイメージして訪れた街の実際は、音と色の洪水でした。カラフルな旧市街と大音量の音楽、人の声、空、波音。いっぺんで虜になりました。
 ボランティアだった3年間、最後まで自分が日系社会の役にたっているのかが分かりませんでした。でも、日系の皆さんと顔をあわせ、行事の企画をして、時に日本語を教えるのは大きな楽しみでした。また、なにより楽しかったのは、「人の話を聞く、好き勝手に話す」ことだったように思います。
 一世の方から聞いた移民船の日々や入植当時の話、二世の先生方の日本語学校奮闘記、また、日系社会の今後に関する議論。どれも聞くだけでワクワクしましたが、同時に、思ったことを好きなように言わせてもらえる環境が私には合いました。
 職場を離れても、海で友人たちと一日中話しこみました。今思い返すと本当によくブラジル人とも日系人とも日本人とも話していた気がします。
 ブラジル永住を志したが叶わず失意の帰国をし、その後、縁あってJICAに職を得ました。すぐにブラジルに行かせてもらえるとばかり思いこんでいましたが、戻ってくるのに16年もかかってしまいました。
 でも、その間にボリビアやドミニカ共和国で働いて、ブラジル以外の日系社会に触れ、仕事をする時間ができました。
 今ブラジリアで仕事をしていると、16年という時間もあってよかったのかなと思えます。
 ボランティア時代にブラジルでただひたすら話をしていた自分が、今は様々な場所に出向いて「話し」をしています。ある種「話す」ことが仕事になったんだなと思います。
 あの頃よりは少しはまともに「話す」ことができるようになったのだろうかと時々反省します。
 今の自分があるのは、あの3年間があったからです。私はブラジルで、子供が大人になるように、立って、言葉を覚え、やりたいことを見つけるプロセスを再体験できたと思うのです。
 少し大人になった自分が、日系社会とブラジルにどうやったら役に立てるか、それを考えることが私の仕事であり、私個人のブラジルとの関わりです。
 日系社会の皆さんには感謝ばかりです。そしてこれからも間違いなくお世話になり続けていきます。よろしくお願いいたします。

五味誠一郎(ごみ・せいいちろう)

【略歴】東京都出身。46歳。海外開発青年11回生(団体事務)として、バイア州のサルバドール日伯文化協会連合会に1996年3月から99年2月まで派遣された。現在はブラジリアのJICAブラジル事務所に勤務。