道のない道=村上尚子=(69)

 町枝に対する返事のとき私が強調したことは、私がいかに亭主関白で、タツヨに対して、良い夫でなかったとしても、タツヨの立場に立って私を責めることはない、何かお前は忘れていることはないか。それはタツヨは、お前たちの母親である以前に、私の妻であるということ。
 私たちは夫婦になった最初から、私たちの在り方は二人で決めていたことである。そのタツヨももう今はない。誰が何と言おうと、それは私の不徳から生じたことだから、今後はあえて取り合わないことにした。このまま、お前が帰るまで待つか、それとも日本へ帰りきり帰った方が良いか、未だ決断しかねて迷っています。ブラジルを一刻も早く去りたい希望もあるのだけれど―

 この手紙は、父の一方的な内容であるのは、私が誰よりも知っている。それにしても私が父母の家を出てから今まで、父はますますひどくなっていたのだと想像できる。今では父は私の弟妹全員に背を向けられてしまった。このような父のもとに帰ったら帰ったで、大変であろうことは百も承知で、彼の許へ帰ることを決意した。
 友行に父からの手紙を見せた。彼は私の気持ちに協力をしてくれた。「手紙をお母さんに見せなさい」と提案してくれたので、彼女に見せると、私がブラジルへ帰ることを、静かに承諾してくれた。
 一番気にかかっていた問題が、すっと解決したのはありがたかった。友行が、わりにあっさり私に協力してくれた陰には、彼と付き合っている女性がいる、ということがもちろんあった―
 それはそれで「友行に淋しい思いをさせないで済む」という変な安心がある。

 いよいよ、ブラジルへ帰る間際に「会社を辞める」ことを社に申し出た。
 数日後のことである。上司が私をあるレストランに招待するという。彼の恋人(私たちの仲間の一人)も同伴である。その高級そうな店でご馳走になっている時、彼女の方が口を開いた。
「みんなゴマばかり摺って、仕事は一人前も出来ないで……」
と暗に、あのお歳暮のことを匂わせていた。
 もう遠い国へ帰ってしまう、一介のこの私、それをここまで扱ってくれる人たち……これも日本なのだ……

     ブ   ラ   ジ   ル   へ

 この時の私は四十六歳、サンパウロ市のタボン・ダ・セーラという、父の所へ帰ってきた。妹は私の顔を見に、彼女の夫と一緒にやって来た。
「お姉さん! お父さんと暮らすちいうんは、女中以下になるということばい! 分かっちょるかね?」と、深く心配してくれた。しかし私は、父を助けるためではない、自分の行く所がないのだ……父と私は互いに利用しあうこととなった。一人で暮らしながら、学校へ通っていた娘、琴子も引き取った。父は随分大人しくなっていた。その父が、私と逢ってすぐに言った言葉がある―
「オレはもう、四十日で死ぬ……」
 どこからこんな数字が出てきたのか、確かにかなり弱っていて、そんな影が見えないこともない…… 私はそれを信じた。いや! 信じたかった。
 ここは田舎町で、平屋である。母屋と別棟がL字形に建っている。その家の前には、そこそこの庭があって、イペーの木やぱっとしないプランタ(植物)も植わっている。私と琴子は、別棟にある部屋を一つずつあてがわれて入った。