野口英世の足跡を追う=1923年に伯国で黄熱病研究=聖市ヴィラカロン在住 毛利律子

野口英世(1876-1928、[Public domain], via Wikimedia Commons)

野口英世(1876-1928、[Public domain], via Wikimedia Commons)

 2017年、年明け早々、ニッケイ新聞1月14日、続いて17日号において、現在ミナス・ジェライス州で拡大している黄熱病の報道が掲載された。
 その後、連日この話題が続いている。同紙には「黄熱病は7年ぐらいの周期で繰り返され、最後の流行が2008―2009年であった」ということであるから、ほぼ7年後の今年に再発しているということになる。
 今日、予測の付かない世界情勢や、突如として起こる天災、沈黙のうちに広がる疫病など、何かしらの不安に駆られる年明けとなった。

「黄色い熱」の病気とは?

 ポルトガル語で「フェブリ・アマレラ」、英語で「イエロー・フィヴァー」、日本語ではそのまま「黄熱」と形容される病名のその黄色とは、ラテン語の「黄色=フラヴァス」が元になっている。
 黄熱病ウイルス、デング熱ウイルス、日本脳炎ウイルスなどはフラビウイルスに属し、そのウイルスをもった「蚊」から感染する。その蚊は、黄熱蚊と呼ばれるネッタイシマカなどである。
 発病した人は、最悪の場合、高熱と全身の痛み、強い肝不全、腎不全によって皮膚が黄色に染まる黄疸症状を示して死亡することから、「黄熱」という名前が付いた。治療は対処療法のみで特効薬がないため予防ワクチンを打つのが最も良いとされている。まだ病気にかかっていない人が接種するとその免疫効果は、ほぼ一生持続するという。
 なお、黄熱予防接種証明書(イエローカード)の有効期限がこれまでの10年から、2016年7月11日以降、一回の接種で生涯有効となった。
 ブラジルのようにその脅威にさらされる可能性がある国に住む日本人にとっては、国立感染症研究所、厚生労働省検疫所、日本海外感染症情報などのウェブサイトで最新情報を確認するのが一番良い方法であろう。

ブラジルでの足跡

 黄熱病研究に貢献した研究者の名前には、必ず野口英世博士の名が挙げられる。日本人の野口英世像は、一歳の時に囲炉裏の火で左手の五本の指が癒着する障害を負ったことにより、学問による立身出世の道を貫いた偉人であり、千円札の顔としてもよく知られている。
 しかし、野口博士が今から93年前、ブラジル・サルヴァドール州での黄熱病発生の知らせを受けて来伯し、約3カ月間の研究生活を送っていたことは、ほとんど知られていない。
 リオ・デ・ジャネイロのラモス地区には「野口英世通り」があり、リオで日本人の名が付けられたのはこの通りだけだという。
 カンピーナスには「野口英世広場」という記念公園がある。その公園内に胸像が建立されたのは1967年(昭和42年)、野口の出身地である福島県人会がブラジル移民50周年記念行事の一つとして福島県の費用と多数の篤志により実現した。
 サルヴァドールにも、バイーヤ連邦総合大学医学部正面玄関にはオズワルド・クルス研究所の創設者オズワルド・クルス博士と並んで飾られたレリーフがあり、実際に研究をしていたオズワルド・クルス研究所バイーア支所は、現在「ゴンサロ・モニッツ、LACEN中央研究所」という名で存在している。

「Laboratorio Prof. Noguchi(野口研究所)」の壁面には漫画の野口伝が貼られている(写真=毛利さん提供)

「Laboratorio Prof. Noguchi(野口研究所)」の壁面には漫画の野口伝が貼られている(写真=毛利さん提供)

 かつて、その中のこじんまりとした一室が野口の黄熱病研究に使われ、現在でも銅版に記るされた「Laboratorio Prof. Noguchi(野口研究所)」の銘板や、入り口正面に掲げられた写真、野口が遺した研究器具、実際に使用していた大きな机などが当時のまま保存されている。
 その机に面した壁面には漫画の野口伝が貼られている。内部は記念館というより、野口の遺品を飾り、職員はその偉業を称えつつも、普段に何の気兼ねも無く、大らかに使われているという印象を受ける。

国民的画家ジェンネル・アウグストによって1955年に描かれた、バイーア連邦大学医学部で研究中の野口英世を描いた絵の複製画(写真=毛利さん提供)

国民的画家ジェンネル・アウグストによって1955年に描かれた、バイーア連邦大学医学部で研究中の野口英世を描いた絵の複製画(写真=毛利さん提供)

 入り口近くの壁には国民的画家のジェンネル・アウグスト(1924―2003)によって1955年に描かれた、バイーア連邦大学医学部で研究中の絵画の一部の複製画も掛かっている。
 1914年、37歳でロックフェラー研究所正員となった野口英世の黄熱病研究は、1918年7月15日年南米大陸の北端、ほぼ赤道直下にあるエクアドルのグアヤキルから始まり、1919年メキシコ、20年ペルー、23年ブラジルに赴き、アフリカ・ガーナのアクラで、自らが黄熱病に感染して51歳で死亡したと伝えられる1928(昭和3)年5月21日までの西アフリカ、中南米と約10年間に亘る。
 野口博士の中南米への黄熱研究派遣は次のような状況から始まった。

黄熱病の拡大

 16世紀以降新大陸での植民地建設のため、西アフリカから多くの黒人奴隷が船で運ばれ、極めて不衛生な船内で黄熱ウイルスを持つ蚊が増殖していた。その当時の記録に、アフリカを出港した奴隷船の乗組員全員が感染して死亡し、近海には幽霊船が多数漂流していたとある。
 しかし、黄熱病が原因であることは、当時の医学では分からなかった。黄熱病が人類史上に登場するのは17世紀のことである。1648年、メキシコのユカンタン半島やキューバなどカリブ海沿岸地方で、黒色の嘔吐と皮膚の黄染を特徴とする発熱疾患が大流行した。これが最初の黄熱の流行に関する記録だという。やがて黄熱の流行は新大陸の全域に拡大していった。
 1898年にスペインとの戦争で勝利したアメリカ合衆国はキューバを保護国化し、この地で猛威を振るっていた黄熱の撲滅に当たった。1900年に合衆国陸軍は黄熱委員会を組織し専門家をキューバに派遣した。当時の検証法は、まさに人体実験であったが、これによって黄熱が蚊に媒介されることが明らかになった。
 この結果を受けて、合衆国はこの実績をパナマ運河の建設工事にも応用した。運河の本格的な建設工事が始まり、1914年に運河の完成に至るのである。パナマ運河の完成により大西洋と太平洋は直結され合衆国近隣の交通は便利になったが、同時にカリブ海の黄熱が太平洋沿岸に拡大する危険性が懸念された。
 この事態に、スタンダード石油のオーナーであるロックフェラー家が登場する。当時のロックフェラー家は税金対策として慈善事業に関心を持っており、それが黄熱撲滅へと向けられたのである。
 1915年にロックフェラー財団は黄熱撲滅計画を正式事業として決定し、1918年に南米のエクアドルへ調査団を派遣することにした。野口はその中の一人であった。
 野口英世がブラジルを訪れているのは1923年(大正12年)11月21日、リオ・デ・ジャネイロの港に来着し、サルヴァドールでの研究生活を終えて、1924年3月3日(2月24日説もある)にサントス港からニューヨークに戻るまでの約4カ月である。

『伯剌西爾時報』の来伯報道

 野口は1923年、リオのオズワルド・クルス研究所を訪問し、当時のブラジルの医学者、研究者たちは、小柄(153センチ)で高名な日本人科学者を歓迎した。
 リオに到着した際の『伯剌西爾時報』(1923年11月23日金曜日第320号)7面には、『伯国の黄熱病退治に来た野口博士・猿や兎に発明の注射25日にバイーアへ出発』との見出しのついた記事が掲載されているが、この新聞社による野口の報道は1923年11月9日、11月23日、12月21日、1924年1月11日、1月18日、2月1日、3月7日と続いている。『伯剌西爾時報』は全般的に「世界的に有名な野口博士」のブラジル滞在を称賛する記事を継続して報道している。
 特に、1924年3月7日(第334号)7面の記事は大変興味深い。
 それは外交官田村大使と野口博士を比較して、日本人が国際人としての尊厳を保つための努力をどのように為すべきかが言及されている部分であるが、要約すると、「これまでの公使の為すところを見るといずれも不徹底である(中略)田村大使が一カ月の視察で、サンパウロ周辺の在留邦人の状況が飲み込めたとするなら、もっと大局的な視野に立って指導機関を設けるべきである」と苦言を呈し、「野口博士は日本人の中でも風采の上がらない人であるから、外人から嫌われないように勤めて謙遜にし、日本語をしゃべらずその土地の言葉で話すように心掛けた。来伯時には、博士はすでに世界的権威として知られていたが、バイーアでの研究生活が始まったときでも、決して驕らず、ともに研究をする態度で目的を果たしたのである」、「野口博士は日系人の肩身を広げてくれた。博士は、自分はブラジルに指導に来たのではなく習いに来たと述べているのである。その際、フランス語でインタヴューしたエスタドス新聞の記者に対して、流暢なポルトガル語でブラジルでの研究生活の印象を語った」と報道している。

ブラジル人によって書かれた伝記

 大変興味深いことには、サルヴァドールでの研究中に助手をした、バイーア連邦医科大学教授ヴィアナ・ジュニア(生年不祥、没年1962)によってポルトガル語で書かれた伝記が存在するのである。

リオで1929年に出版された「世界の偉人シリーズ」にある野口英世の本(写真=毛利さん提供)

リオで1929年に出版された「世界の偉人シリーズ」にある野口英世の本(写真=毛利さん提供)

 彼は野口と親交のあった父・アウグスト・ヴィアナ(1867―1933)博士の息子で、リオ・デ・ジャネイロで1929年に出版された世界の偉人シリーズ中、野口について執筆した。
 このシリーズには、ムッソリーニ、サラザール、ヒットラー、レーニン、ルーズベルトと並んで、日本人からはHIROHITO(昭和天皇)と野口の二人が紹介されている。
 序文は当時の在ブラジル日本国大使桑島主計(くわしま・かずえ)に依るものである。この本の末尾で、バイーアの文人カルロス・キアッキオ氏(1844-1947)は、「彼の助手であり伝記の著者であるヴィアナ氏によって野口の人物像とその研究のことが書かれなければ、我々はこの東洋の偉大な科学者のことを知ることはできなかった。これほどの人物の功績についての記録がほとんど遺されていないのは、至極残念なことである。バイーア州はサンパウロ州やリオ州に比べても本の出版率が低く、特に専門的な分野は極めて不足している。黄熱病は当地においても脅威であり、その撲滅のため病原体を発見した偉大な研究者を大々的に報じていないということは誠に遺憾である」と述べている。

野口病原体説への疑惑

 野口はニューヨークのロックフェラー研究所で微生物学における多数の新発見をし、1913年に梅毒スピロヘータを発見して世界的に有名になっていた。
 しかし、1918年、エクアドル到着後9日目(諸説ある)にして発見したとされる野口病原体説(細菌説)はすぐに否定された。黄熱病の病原体を取り間違えたのである。1920年代になり、野口の発見は間違いとする論文が相次いで発表される。
 とくにロックフェラー財団・ラゴス研究所内の同僚医師から野口説は否定され、黄熱病の病原体はウイルスによるものであると発表された。
 バイーア州で1924年に発表された『ガゼッタ・メディカ・ダ・バイーア』(Gazeta Medica da Bahia)9号には、サルヴァドールで共に研究作業に関わったフローイス博士(Dr. João A.G.Fróes生没年不祥)から発せられた野口の研究結果への疑義に対する往復書簡が掲載されているが、野口の文面は痛々しいほど慇懃な印象を覚える。
 フローイス博士は、「1923年7月のバイーア州独立記念日に開催された医師会の会合で貴説に対して、すでに疑問を懐いた」と、野口の説に対して疑義を呈している。
 黄熱病研究者としては苦境下にあった野口は、博士の質問に丁寧に答え、書簡を次のように締めくくっている。「このように長い手紙を綴り、あなたの貴重な時間を割いてしまいましたことをお許し下さい。最後に、博士が使われた血液検査の染色の色素液を使わせて頂いております。その素晴らしい方法をもっと早く知っていたらどんなに善かったでしょう。これはマラリアを鑑別するためにも、大いに役立つすばらしい方法だと思います。改めて御礼申し上げます」
 今日、IPCC(気候変動に関する政府間パネル・国連の組織)の予測では、今世紀に予測される気温上昇によって、健康影響として、人類への感染症の深刻なリスクの上昇も示唆されている。野口が探求した黄熱病の正体が人の目で確認されたのは、電子顕微鏡の開発が進んだ1950年代のことであった。
 野口英世は「眠らない研究者」とあだ名されるほど感染病の研究に没頭した。たとえそれが後世、黄熱病の病原体を取り間違えた研究者として評価が低いとしても、そのひたむきな研究姿勢はブラジル社会で評価されている。
 野口は、1914年から20年の間に3度ノーベル賞にノミネートされ、200余の論文を書いた。実際にブラジルに遺された幾つかの文献には、野口の黄熱病研究結果の不一致よりも、熱心で真摯な人物像が描かれている。(2015年8月エコクリティシズム環境研究学会誌に発表した拙論を短くまとめました)