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水野龍を巡る二つの講演=知られざる功績と航海日誌秘話=(下)=大浦「念ずれば花ひらく」

溌剌とかたる大浦文雄さん

溌剌とかたる大浦文雄さん

 笠戸丸航海日記は、スザノでの展示会の後に水野の妻・万亀さんに返された。
 その時、万亀さんは大浦さんに「今まで水野は一般の人々から悪口を言われていた。今回初めて陽が当たるようになった」とのお礼をのべ、絶筆の短歌の額を進呈した。それが「年を経し醜(しこ)の醜草(しこぐさ)根をたえて移し植えなん大和撫子」というもので、現在、史料館に寄贈されている。
 大浦さんはスザノから1970年10月の文協理事会に理事として出席し、移民史料館建設の意義を提案した。それが移民70周年を記念して1978年に実際に建設された。
 ところがその展示品に笠戸丸航海日記がなく物足りなく思っていた。同年、救済会の用事でたまたまバストス開拓館にいったら、そこにあった。山中さんの生家が水野の実家の近くで、もともと付き合いがあった。大浦さんは資料収集に孤軍奮闘していた山中三郎館長に、「航海日記は移民の原点、バイブルだから中央の史料館におさめるべきでは」と繰り返し進言した。
 移民90周年を翌年に控えた1997年頃、再度バストスを訪れた際、今度は短歌で《笠戸丸航海日記よたずさわれ 辺境の地をはなるるは何時(いつ)》と書いて渡すと、山中さんは「分かった。明日渡す」と言ってその通りにし、大浦さんは「預かります」と受け取った。あいまいな表現でのやり取りだった。
 移民90周年で文協ビル9階を増築して「皇室写真展」を開催することを企画していた史料館は、目玉展示品ができたと喜び、「寄贈品受け取りの令状」を送った。
 ところが山中さんから電話で、「呈上ではない。貸したのだ」と強く抗議が入り、てっきり寄贈されたとばかり思っていた大浦さんは「狐につままれたような気分になった」という。もちろん返した。
 その山中さんも2000年に91歳で亡くなった。大浦さんは文芸誌『国境地帯』第21号(2009年4月刊)にこの顛末をしたため、《私は今でも私の考えを変えていない。いつの日かあの笠戸丸航海日記は中央の史料館に収まる日が来ることを信じている》との執念を書き記している。
 2年ほど前に大浦さんがバストス出身の二世判事・渡部和夫さんにこの件を相談すると、バストス市長に直談判してくれ、「両館で共有し、聖市で保管する」との署名を2016年に交わした。実物を聖市の史料館に保管することになり、それを記念して今回の水野龍展が開催されたとの流れを、当事者ならではの生々しい情景描写を交えて講演した。
 最後に大浦さんは「史料館創立委員のメンバーで生き残ったのは私だけになった」と寂しそうに胸中を語りつつ、日本の仏教詩人の坂村真民の代表作「念ずれば花ひらく」を紹介し、「一人では何もできないが、誰かが始めなければ、できることもない」と締めくくった。(終わり、深沢正雪記者)

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